第15回 夜を急ぐ

 朝、起きると花と目が合った。カーテンの開けはなれた窓からは燦々と光が降る。枕元の眼鏡をかける。花は椿、常連さんがくれたものだ。引っ越したばかりで花びんがなかったので、ガラスのカップにいれた。気のきいた場所もなく、なんとなく布団横の文机に置いたが、これはなかなかに良い。寒さのなかで椿の赤は輪郭をしっかりと保っている。

 年末に慌ただしく、この家にうつり住んだ。山手の小学校近く、階段をくねくねと登りつづけた先にある小さな借家。尾道に移住したご夫婦が買った古民家だったが、また新たに別の家に引っ越したため、代わりにこの物件を僕が借りることになった。畳の居間に、板張りの台所、南側に設けられたこじんまりとした客間。三畳ほどの部屋で暮らし続けた身からすれば、じゅうぶんすぎるほどだ。坂の上まで登らなければならないのが不安だったが、慣れてしまえばどうということはない。窓から外を見下ろせば尾道水道。まるで、絵に描いた尾道暮し。気になることと言えば、緩く家が傾いていることと、すきま風のあること。夏には虫もよくでるだろう。もともと古い家なのだから仕方ない。若いうちにこういう家に暮しておくのは贅沢なことだろう。

 店の二階のシェアハウスには七年近く暮らした。もともと深く暗く陰気な路地の先にあったこの建物も、年々にまわりの家が取り壊されて今では日当たりの良い「西向き」物件となってしまった。暮らし始めた当初、住人は八人。みな、尾道市外からの移住者ばかりだった。最初案内された部屋は通称「お仕置き部屋」と呼ばれた、窓のない物置部屋。ほかの空き部屋もなく、その部屋なら格安で良いとのことだったので僕は残されたガラクタを片付け、実家から持ってきたわずかばかりの荷物で自分の城を築いた。

 台所、お風呂、トイレは共同。それぞれの部屋の広さによって家賃は決まっている。職業、年齢、生まれ育った町も違えば、性別も違う。何人もの同居人と時間を過ごし、気づけば自分が一番長く居座ってしまった。「尾道暮らしに夢見て」というよりかは、なんとなくこの町に行きついて心地がよいから暮らしている、そんな雰囲気があった。

 思えば、あまりに居心地が良すぎた。徒歩で呑み屋に通え、呑んだあとはポプラでアイスやらカップ麺やらを買って帰る。だらしなく酔っては、くだらない時間を塗りつぶす。それぞれが好きなように暮らし、日のひととき重なる時間に色が混ざった。音楽があった、映画があった、漫画があった。みんな、いなくなってしまった。ちょっと長く住みすぎた。忘れていくには思い出が多すぎる。

 二二時半ごろに家を出て坂を下りる。段差の異なる階段のリズムにまだ慣れない。自転車を商店街に走らせる。夜のアーケードは静かで、寒々しい。人も数える程度しか歩いていない。「よくもまぁ、こんな静かな町で深夜に店を開けているな」と今さらに思う。店に通う、というありふれたことにも新鮮さを感じてしまう。最近まで、通勤は二階の部屋から階下の店に行くだけだったからだ。初めての顔を見るような気持ちで夜を急ぐ。忘れものをしたような気もするが夜を急ぐ。店まで急ぐ、忘れていくまで。

* * * * * *

昨年までの連載が1冊にまとまりました!
『頁をめくる音で息をする』
https://www.webdoku.jp/kanko/page/4860114647.html