第16回 五月の夕暮れの匂い

 五月の夕暮れの匂いがした。なんの匂いだろうか。この季節に咲く植物の匂いに海の匂いがまざったような、そこに夕方から流れる匂いが混ざったような。色で例えれば新緑の色なのだろうか。僕はこの匂いを去年にも、その前の年にも嗅いだことがあるのに、あっ、と毎回懐かしい気持ちで出会っている気がする。

 組合市用の本の整理を終えた、帰り道にこの匂いに気づいた(出会ったというべきか)。商店街の合間から見える海の風景が違って見えた。写真を撮ろうか、と思っているうちに自転車を前にすすめてしまう。元の場所に戻ればいいだけの話なのだが、それはもう違う何かのような気がしてしまって、しなかった。今度は町の風景を意識して商店街を走る。この気持ちのままどこかで写真を撮ろうと思って走る。絵になるような一瞬を探す。ここもいいか、とデジカメを取り出して撮ってみるが、さきほどのような新鮮な驚きはない。

『頁をめくる音で息をする』を刊行してから、半年ほどが経った。自分の初めての単著ということもあって、一種の気負いがあったのは間違いない。それでも一度、書き終えてしまえば自分の手元から離れた別の生き物のように感じてしまう。まるで、自分の体から剝がれていった羽根がふらふらと見知らぬ人のところまで飛んでいったような。羽根だと良いように言い過ぎなので、埃か毛玉かなにかかもしれないが。

 お客さんから直接、読んだ感想をもらうこともしばしばあった。そのたびに、気恥ずかしさで誤魔化したくなる。悪く言われれば反抗する癖に、良く言われれば茶化して流す。広島の本屋、READAN DEATで刊行記念のトークショーをした時も店主清政さんに「この面倒くさいところも、信頼できる」と言ってもらった。ここは「信頼できる」という部分だけに喜んでいたい。

 まとまった文章を書いたことで、ふだん本を読むときにも変化があった。いい文章のようなものに触れたときに、それがあまりに整えられすぎているとどこか物足りなさを感じる。なんとなく「本当だろうか」と思ってしまう。なるべく、その人の本当らしさやぎこちなさが感じられるような文章が読みたい。正しくは、書きたいと思った。面倒くさくとも素直な文章が書きたいと思った。

 日常のありふれた出来事やささいなことを、その時のままで文章にするのは難しい。それは匂いのように、追うととたんに消えてしまう。絵になるような一瞬を探してしまうと、気持ちは濁る。自分の頭の中だけで(心の中で?)文章にすれば、物語のなかで生きていける。誰も読むことはないから、評価されることも晒されることもなく、ただそのままであれる。だけれど、そのままでありたかったものがあるだろうか。誰にも触れず触れられず綺麗のままで生きたいか。素直な文章、生活は他人との関わり合いのなかでしか見つからない。僕は誰も来ない書斎よりも、誰もが来ることのできる古本屋にいたい。

 踏切をわたり、自転車を押して家路へと続く坂をのぼる。息はあがりながらも、止まらずに登りきる。夕暮れはまた夜になろうとしている。