第17回 さよならだけが人生か?

 古本屋、銭湯、安い呑み屋に定食屋と喫茶店。違う町に旅行へでても、いく場所、店はさして変わりない。自分にとっての良い町の条件は、昼から呑んでいるおじさんのいる食堂、珈琲の注文がホットで頼める喫茶店、湯からあがってすぐに一服吹ける銭湯、冷蔵庫から自分でポテサラを取れる居酒屋、安い本と高い本どちらも売る古本屋があることだ。欲を言えば、お金がなくて、することがなくてもぼーとすることのできるベンチがあるとなおいい。

 京都へいくたび、隙を見つけては風呂屋に入る。サウナの梅湯は京都についてすぐ、あるいは帰る前に寄ることが多い。自分と同年代くらいの若者たちが切り盛りしていて、空気感というのか雰囲気が自分のやりたいことに近しく、勝手にシンパシーを抱いてしまう。営業時間は深夜二時まで。僕の店は深夜三時まで。梅湯のスタッフさんたちもよく尾道にやってきてくれる。まるで遠い親戚みたいだ。六条にある白山湯はお風呂も広く、作りも現代的だがなによりもその清潔さに驚いた。湯に浸かりながらほかのお客を見ていると、それは常連客たちの無言の気遣いで保たれていることが分かる。気持ちがいいのは湯加減のおかげだけではないだろう。京都市役所近くの玉の湯。今はなき三月書房へ立ち寄るついでに浴びるのが定番だった。さっき買ってきたばかりの自由価格本と一緒に汗を流す。本はもちろん脱衣籠の中だが。

 SNSの投稿で錦湯がもうすぐ廃業すると知った。錦市場で昭和二年から続く老舗銭湯だったらしい。僕が入ったのはたった一回きり。ただ、その一回は自分にとってとても大事な一回だったので、思い出も濃い。せめて最後にもう一度だけは湯を浴びたかった。店の定休日に急ぐように新幹線に乗った。

 夕暮れの錦湯は溢れかえる人で大盛況だった。混み合う脱衣所で籠をひとつ選ぶと、ご主人がおもむろに「それより、こっちのほうが綺麗やで」と取り換えてくれた。計算ドリルを開いて宿題をする子ども、その横では熱心に文庫本を読む学生風の青年、肩を触れながらも黙々と体を洗うお爺さん。常連客たちはそれぞれ思い思いにいつもの日常を過ごしている。そこに悲壮感はなかった。むしろ一つの場所が長い年月を積み重ねた、いくつもの人々の声で包まれ、晴れやかだ。それは静かで、美しい幕引きの風景だと思った。

 尾道もこのところ、地域に愛されてきた店の閉店が相次いだ。店の主人の年齢と体力の限界、コロナの影響もあいまって、閉めざるえない店もあったにちがいない。思えば、店というのは儚いものだ。いつかは看板を下げる日が必ずくる。永遠にあるものは一つとしてない。だれだけ愛されていても、閉めてしまえば、少しずつ忘れられてゆく。仕方ないこと、と言ってしまえばそれまでだ。僕はそれでも同じひとりの小商いの店主として、寂しいと思う気持ちを忘れたくない。

 一つずつにさようならをする。それは新しい手を掴むために、片手だけはいつも空っぽにしないといけないからかもしれない。酒がうまかった、いい本だった、いい音楽だった。いい店だった。いつも良いとされるものは過去形でやってくる。忘れてしまうこと多々。その時々で借りた幸福はまた誰かに貸している。思い出せるように、初めてのように挨拶をする、嬉しがる。無くなることは、そこに有ったこと。有ったことは心でずっとある。