第6回 「バラが咲いた」は母を偲ぶ思い出の曲【ゲスト:マイク眞木さん】②
アメリカ中を旅したもう一つの理由
半:マイクさんの中で音楽といえばやはりフォークソングが原点なんでしょうか。
マ:あとはキャンプソング。あとはさっきも言ったけど、小学校2年生ぐらいから教会に通ってたし、中学から青学(青山学院)だったから賛美歌も染み込んじゃった。あと、親父は舞台美術家だったのでこの部屋でデザインを描いていて、その時に必ずラジオでFENがかかっていたから自然に聞いてた。カントリーかジャズかハワイアンかぐらいしか流れてこなかったんだけど。あと、親父が下手くそだけどトロンボーンとかマンドリンで終戦直後だったからジャズかなんかをうちで友達とやってた。学校の帰りには三味線の音が聞こえてくるし。その辺がもうごちゃ混ぜ。
半:そうでしたか。気になったのが、この部屋の楽器コレクションを拝見しても、エレキギターがないいんですが。
マ:ああ、まあ下の物置にあることはあるんだけど。
半:いわゆるテケテケのエレキのほうにいかなかったのはなぜなんですか?
マ:周りはいってたね。そうね。なんであっちいかなかったのかな。理由はないけど。アンプが必要だし運ぶのも重いし、メンバーを揃えるのが大変だからというのもあったかもしれないな。でもやっぱりアコースティックの音が好きだったのかもね。カントリー好きだったから。ブルーグラスとかバンジョーの音は昔から好きで、キングストン・トリオとか、向こうのフォークグループにはバンジョーが入っていたし。学生バンドの時はほとんどバンジョーかギターをやってた。
半:バンジョーはいいですよね。カラッとしていてあれが入るだけで急にカントリーのムードになりますからね。
マ:多分、世間の人の多くは俺に「アメリカに憧れて行っちゃって、ギターもバンジョーもそれの延長線上で好き」っていうイメージを持っていると思うんですよね。それもあるんだけど、もっとルーツはおばあちゃんなの。おふくろが僕が7歳の時に病気で亡くなっちゃったので、俺は明治の初めに生まれたおばあちゃんに育てられたの。英語の歌を歌うと「敵国アメリカの歌を歌うとは何事ですか」と言われて、この辺をジープが通ってそのジープを追っかけていくとチョコレートとかガムとかをくれるわけだけど、それをもらって持って帰ると「なんて卑しい。なんということするんですか」って怒られた。
半:そうでしたか。
マ:俺は一人っ子だから、大昔なら武家のうちの子供は仇討ちをしなきゃいけなかったんですよ。それで「大きくなったらアメリカを仇討ちしなきゃいけない」っておばあちゃんに子供の頃から植え付けられて「いやー弱ったな。どうやってやればいいかな」とかいろいろ考えてた。親父は結構さっと切り替わっちゃってアメリカ人の友達を連れて来たりなんかしてたけど俺は「こいつ敵だよな」って思ってたね。どうしたら仇討ちできておばあちゃんを満足させることができるかなっていろいろ考えたの。
半:なるほど。
マ:一人鉄砲を持ってアメリカに乗り込んで、というわけにもいかないじゃない。それで俺としては「あ、そうだ、現代的仇討ちとしては、アメリカへ行って、アメリカ本土をアメリカ人以上に旅をして、アメリカ人と同じものを食べて、同じものを着て、アメリカ人以上にギターもバンジョーも弾けて、アメリカの歌もさらっと歌えるようになる。これだ!」と思ったわけです。
半:ほお! すごい逆転の発想ですね。
マ:それでコーラも飲んで。アメリカ中をキャンピングカーで旅して、アメリカ人の知らないような歌まで田舎のアメリカ人相手にちらっと歌っちゃって「なんだこいつは?」みたいに思われて。これが俺のアメリカに対する仇討ちだと思ったんだよね。
半:すごい解決策ですね。平和的でいいですね。
マ:そうそうそう。

「仇討ち」をしにアメリカへ行って肌で感じたカントリー音楽
半:アメリカに行かれたのは何年ですか?
マ:最初は1965年。長くいたのは68、69、70年。自分なりにアメリカ人の中流よりもちょっと上ぐらいのレベルになったかなと思った時、それで一応仇討ちを終えたんですよ。
半:納得したと。
マ:納得して「よし、これでアメリカやっつけたぜ」と。
半:ほお、アメリカの各州をかなり回られたんですか?
マ:大体、半分は回った。長いこといたのはカリフォルニアなんだけど。最初のかみさんの知り合いがイリノイ州にいてそこに行ったり、ワシントンDCに着いた時はお金盗まれたり。田舎も好きだったね。コロラド州のデンバー、ニューメキシコ、アリゾナ、ネバダ。
半:現地で感じるリアルなアメリカの音楽というものは、日本に伝わってきているフォーク、カントリーの肌感覚と違いましたか?
マ:空気がね。アリゾナとかニューメキシコの地平線までまっすぐな道を運転してるとタンブルウィードって枯草が風で丸まりながら転がっていたりして「映画じゃん!」って思った。それで、もう何にもないわけですよ。何時間か走ると、やっと小さな街がポツンポツンとあって、でもまばたきするともうその街が過ぎちゃって。そういう時にラジオをかけると、カントリーのスティールギターみたいなのがチャッチャッチャッって流れてくる。うお~、これはって。
半:たまらない(笑)
マ:そう。乾いた空気にカントリーが流れてきて、やっぱりこの生活とか風土から生まれてきちゃってるよなあ、みたいに感じたよね。
半:だからウディ・ガスリーであったり向こうのフォークシンガーは足で回って演奏するわけですよね。レコード歌手じゃないんですよね。結果としてレコードは残るんだけども。
マ:そう、本当にそう。
半:僕もほんとに失礼ながら、マイクさんは「アメリカ文化に明るい方、アメリカを最先端で取り入れた日本人の方」というイメージで「アメリカがお好きなんだろうな」という入り口でした。
マ:もちろん好きな部分もあるんだけど、底辺にはやっぱり「仇討ちしなきゃいけない」が。
半:それがすごいなぁ。でも「こんちくしょう」ってならずに、むしろ一枚上手なその考え方がすごいです。
マ:そうかな。それしか思いつかなかったもんな。それで多分おばあちゃんも納得してくれただろうなと。
半:そういった考え方に当時賛同した仲間とはいらっしゃったんですか?
マ:いないよ。誰にも言わなかったもん。だからほとんどの人に「マイク眞木はただのアメリカかぶれだ」ってずっと思われてたと思う。「そうじゃないんだよ」っていちいち説明するの大変だからさ。知らん顔してやってた。
半:なるほど。
マ:アメリカの端まで行ってまた戻ってきて、最後にロサンゼルスのサンタモニカにいたんだけど、そこに小さな飛行場があって飛行機の操縦を習ったわけ。
半:セスナ機ですか?
マ:小さいパイパーチェロキー(パイパーPA-28 チェロキー)っていう飛行機。セスナは上に翼があるんだけど、これは下から生えてるの。とりあえずそこで習って空を飛んで「御先祖様、私はあなたたちが来られなかったアメリカの空を今飛んでますよ」と伝えました。
半:そうかあ。ある意味では本土決戦ですよね。
マ:そうそう、「本土決戦に来ましたよ」ぐらいの思いがあったんだけど誰にも言わなかったです。
(編集:マイクさんは気持ちが武士だったんですね。)
マ:どうなんでしょうね。おばあちゃんに叩き込まれちゃっていたからね、歌舞伎の曽我兄弟の仇討ちだとかの話を聞いてたから、俺は将来そうしなきゃいけないのかなみたいに思ってた。
半:そうだったんですね。僕は兵庫県出身で18歳の時に東京に出てきたんですが、言うなれば俳優になったのも、東京に憧れて出てくる理由を作りたかったというのが一つにあったんです。マイクさんのお話を聞いてると、東京に生まれた人は世界に行くんですね。多分地方出身者だと東京出てきた、次はアメリカ、ってならないんですよ。
マ:あんまり深く考えないでやっちゃってたからね。ノリで。
半:それがいいですよね。ノリで生きるのが一番いい。

半田が好きなマイク眞木さんの曲『空には名前がない』
半:日本におけるフォークソングって、70年代に入ってからはニューミュージックと言っていいと思うんです。メーカーから言われて作らされた方も多分いると思うんですけど、言い方がものすごく悪いんだけど、ちょっと商業的な匂いがするビジネスフォークというか。でも、60年代の関西フォークの方々や、高石ともやさんや岡林信康さんは自分の意志で書かれていたと思うんです。ただそういう方々って、反体制的というか明るくないですよね。世の中の不満を歌で代弁して出す。それこそがフォークソングだというフォーマットはわかるんですけど。その中でマイクさんの歌にはそういうひがみ的なところが一切感じられないんですよ。その明るさやピースフルな感じはどこから来るのかなと思っていたんですが、今のお話を伺ってすごく合点がいきました。
マ:あらま。
半:僕、マイクさんの歌で一番好きなのは、マイクさんがお作りになった曲じゃないんですけど「空には名前がない」なんです。安井かずみさんの歌詞で、かまやつひろしさんの作曲ですけど、マイクさんが歌うということにすごく似合う曲だなと。まさに空には名前がない、限りがないというのが、アメリカを旅なさって最終的には自分も空を飛んじゃったというお話を伺ってなるほどと今思いました。あの歌、すごく似合ってるなと。
マ:ああそう。歌っていて気持ちよかったですよ。よく知ってるね、いろんなことを。
半:あれは1970年の曲で、万国博があった年ですね。
マ:そうそう、あの時アメリカにいたんだけど大阪万博で司会をやってくれないかって電話がかかってきて、それで司会してたの。僕の前はイーデス・ハンソンさんだったな。
半:何館でですか?
マ:電気通信館。その時に初めてか携帯電話の大もとみたいなのができて、電話と映像であっちとこっちをつないで、同時にせーので歌ったりとか、夜、関西のバンドの連中が結構来ててくれていて一緒にやったかな。
半:「空には名前がない」はアメリカ帰りで吹き込まれたのだと思うんですけど、あの歌はサウンド的にもちょうど万博あたりのソフトロック歌謡の要素もありますね。アレンジは大野克夫さんです。あの時代ならではの空気があるなと思います。あと、マイクさんのアルバムで一番好きなのは意外と近年もので、これなんですよ。
マ:ああ、「オールド・スクール」(2013年)ね。これはね、俺の小学校の同級生がほとんどの詞を書いてくれたの。彼がアルバムにしたいから曲を作ってくれっていうのがきっかけだったかな。

半:ものすごく肩の力が抜けて、自然体でお作りになってる感じがします。
マ:かもしれない。
半:詞もいいんですよね。アマチュアの方ですよね、作詞者は。
マ:彼は大昔はニッポン放送に勤めていて、小学校以来ずっと詩を作っていたの。彼の歌詞を俺がちょっと変えてサビを作ってみたりして作った。
半:「都電10番赤坂見附」という曲は、まさに先ほどのお話ですよね。
マ:赤坂見附のところに都電が走ってたからね。それに乗って学校行ったりしてたし。
半:このアルバムを聴くと、マイクさんの人となりの一部が見えるようで。こういうものが2000年を超えてもリラックスした環境で書き続けられるマイクさんのライフスタイルって僕らの世代からしたらすごく理想というか、羨ましいです。
マ:何だろうね。染み込んじゃったもの以外は出そうたって出てこないからなぁ。
ライブに変わった楽器を持っていった時のお客さんの反応が楽しい
半:この部屋にはいろんな楽器がありますが、なぜ興味を持ったんですか? 全部弦楽器ですよね。
マ:なんででしょうね。民族楽器も好きで、パーカッションみたいなのも好きなんだけど、プリミティブなのものが好きですね。アパラチアン・マウンテンダルシマーのようなアメリカの民族楽器とかね。音楽教育を受けてないから全部自己流で。
半:バイオリンもあるんですね。
マ:バイオリンは勝手に自己流でジータカジータカ、カントリーっぽいのをやるんだけど。
半:ああフィドルみたいな感じですね。

マ:ライブに変なものを持っていくとお客さんの目の色がキラッて変わるのが面白いですね。「何これ。何やってんの、お前」みたいに。いちいち説明するのはめんどくさいけど、持っていってお客さんの目が変わるとうれしくなっちゃう。
半:紅白でリュートを使ってみようって思ったのもすごいですよ。普通使うなら安定したD-28ですよね。でも、あれは視覚的効果がありました。僕も白黒の映像で見た時に、「マイクさん、これ、何持ってるの?」と思って釘付けになったんですよ。
マ:OK、それでOK(笑)。
半:効果てきめんですよ。
マ:そういうのがやっぱり大事だと思いますね。親父が舞台美術家だったからその影響もあるのかもしれないね。「舞台美術ってものを言わないけどそこでなにかアピールしなきゃいけない。舞台美術は、舞台のセットをデザインして、そこに役者さんが出てきて役者さんより目立っちゃいけないんだけど、役者さんを盛り上げなきゃいけない」というようなことを、よく親父がちらちら言ってましたね。

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いつも好きなことをしているからひまだと思ったことはない
半:僕とマイクさんの共通点は一人っ子なんですよ。ここも一人っ子の部屋だなって感じがちょっとしてまして。多分なんですけど、今まで82年間の人生でひまだなと思ったことないかと。
マ:ないよ。
半:ですよね! 僕もないんです。僕まだ42歳でマイクさんの約半分の歳なんですけど、よくわからないやることがたくさんあってなんか忙しいんですよ。ギターには毎日触ります?
マ:毎日触ってます。まあ仕事とかで触れない日もありますけど。仕事がない日は朝ごはんを食べてたらギター弾いてる。同じ世代の友達が「なんか面白いことないかよ」ってよく言うけど、俺はそれ、感じたことないね。銀座のクラブとかも興味ないし、大体の男が通り過ぎてくる麻雀やったりとか、パチンコやったりとか、競馬行ったりとか、それも俺一切やったことないのよ。やりたいとも思わないんだけど。
半:そうですか。僕もやったことないんですよ。マイクさんはサーフィンとかスポーツはお好きですよね?
マ:スポーツは好きだね。
(編集:「横乗り系のものをやる男とは付き合ったらダメ」とお嬢さんにおっしゃっているとか。)
マ:ああ、サーフィン、スケボー、スノボーの横乗り系はいいんですけどね。娘がそういうのをする男性とくっついちゃうと苦労するぞと思ってね。自分も横乗り系をずっとやってきたし、息子たちも横乗り系だけど(笑)。いいところを言えば金はかからないかな。
半:道具にお金がかからない。
マ:それもあるし、頭の中の考え方も金がかからない。要するに欲しいものが波とサーフボードだけ。それで本気でお金がなかったら自分たちで海行って釣りしてるから。魚釣れなきゃ潜ってとってくるし。この社会にそぐわないけど、それをあんまり気にしてないというか。
半:野生ですね。
マ:本当に野生。着るものもショーツとTシャツがあればいいし。
半:そうか。今風に言うとミニマリストですよね。マイクさんはシティボーイのイメージと、そういう自然を愛するワイルドな自然児の両方の側面を持ち合わせているのが不思議ですね。普通どちらかにいっちゃうと思うんですけど。
マ:親父に子供の頃から冬になるとスキー、夏は海とかボーイスカウトでキャンプに行かされてたからかな。
半:まさに多趣味というか。ギターも趣味の中のワン・オブ・ゼムでしょうか。
マ:キャンプは仕事じゃないから責任取らなくていいけど、ギターと歌は仕事になっちゃったからある程度責任取りながらやってます。でも、仕事っていう意識があんまり。俺、足りないんだよな。
半:それ最高じゃないですか。それが仕事になっているんですし。
マ:好きなことやってるんだもん。デビューした意識もないんだよ。俺、あんまり。
半:じゃあいまだにアマチュア意識というか(笑)。
マ:わかんないけど、学生の時から好きでやっていたことがこんなになっちゃって。それで、デビューしてもう60年やってるの。それでずっと好きなことやってて。ライブでも好きなことをやったらお客さんは喜んでくれて、おまけにお駄賃もらえて。いいのかな(笑)。
半:いいんですよ。ツイてますね!(笑) 本日はいろいろお話を聞かせていただき、ありがとうございました。
(7月16日 マイク眞木さんのご自宅にて)

【ゲストプロフィール】 マイク眞木(まいく・まき)
1944年、東京・赤坂生まれ、赤坂育ち。日本大学芸術学部在学中にモダン・フォーク・カルテットに参加。1966年「バラが咲いた」で歌手デビュー。大ヒットとなりその年の紅白歌合戦出場を果たす。モービル石油CMソング「気楽にいこう」も話題に。また、「キャンプだホイ」の作詞・作曲も手がける。アメリカ大陸、ハワイに長期在住の経験を経て1997年、ドラマ「ビーチボーイズ」の出演を機に帰国。千葉ご当地アニメ「とーがね!クロニクル」ではゲスト声優で出演し半田健人と共演。デビュー60周年を迎え、精力的にライブ活動を続けている。マイク眞木オフィシャルホームページ(https://mikemaki.capital-village.co.jp/)
【近日開催のイベント】
■マイク眞木
- 11月27(金)OPEN 18:00 LIVE 19:00 「黒澤・マイク・小松 SpecialUnit」(ブロードサイドフォーの黒澤久雄、MFQのマイク眞木、ヴィレッジシンガーズの小松久が結成しているスペシャルユニット。曙橋・Restaurant & Live House BACK IN TOWN)
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■半田健人
- 10月17日(土)12:00~ 「仮面ライダー555 ファイズリマインド」vol.30(お茶の水・ワテラスコモンホール)
- 11月14日(土)18:30~ 「だんだん好きになっていきましょう 」(中延・隣町珈琲)
※詳細は半田健人公式X(@handakento)をご確認ください。
