第15回 「菊正樽を"ぬる"で」 真夏でも不変の合言葉。
「このお店のこと、お願いしますね。愛してくださいね。私はもうすぐ引退だから」。
独酌されていた常連さんからかけられた言葉。
いろんな老舗酒場に親しんできたこれまでで、最も痺れた瞬間だった。八重洲「ふくべ」でのことだ。
昭和14(1939)年酒屋の立ち呑みとして創業、昭和21(1946)年から現在の地で、全国の地酒を取り揃える銘酒酒場として歴史を重ねてきた「ふくべ」。
縄暖簾のかかった引き戸を開けると、豆砂利のたたきに木製カウンター、飴色に染まった葦簀天井、燗つけ器の奥には天を衝かんばかりに聳え立つ圧巻の一升瓶棚。席の前には、一人前ずつ誂えられた折敷、そこには白磁の徳利とお猪口、お通しの塩昆布の小皿。
凛とした空気と燻銀の佇まいに一目惚れした酒場でもある。

あたしが初めてお邪魔したのは2008年のこと。当時は二代目店主・北島正雄さんが切り盛りをされていた。
L字カウンター奥に鎮座する「菊正宗」の四斗樽。直列に2樽設置されたその呑み口から、使い込まれて角が丸くなった木枡へとくとくとく......、そして真白き白磁の徳利へ正一合が注がれる。
その一連の流れも美しく、さらに燗つけ器の中でくるくると徳利を回しながら燗に仕立てられていく様も流麗。
まるで自分もその燗酒と一緒に湯に浸かっているかのような心持ちでゆったりと身を置いた。
初見にしてこの居心地の良さ。若干30代の未熟者、当然緊張もしていたのだけれども、一見であろうが若造であろうが、一人前の酒呑みとして正統に扱ってくださったのがとても嬉しくて、以来、取材でもプライベートでも、ひとり呑み、酒友とも、ロケ前のひとり0次会でも、様々にお世話になってきた。
そんな中で遭遇した一場面が、冒頭のシーンだ。
その日もあたしは、ひとりで呑んでいた。
口開けと共に入店。そこへやっぱりひとりでいらっしゃったスーツ姿の年配男性客、L字カウンター右端で、慣れた手つきで徳利を傾けていらっしゃる姿も粋だった。
二代目店主正雄さんが水を差し向けてくださりお話を伺えば、22年通い続けていらっしゃる大常連さん。定年退職を目前に控えていらっしゃった。
住まいは郊外、これまでは会社帰りに寄れたけれども、退職したならば、今までのようには八重洲まで足を運べないだろう。自分は過ぎゆく人間だ。あなたはまだまだ若い。だからこそ、これからさらに「ふくべ」を盛り立てて行ってくださいね。
そんな気持ちが込められた言葉だった。
こんな若輩者に託してくださるとは。感動すると同時に、老舗酒場は、こうやって歴史が紡がれてゆくんだなぁ。体感を持って学ばせて頂いた時間でもあった。
雑誌『古典酒場』を立ち上げたのは、老舗の酒場の凄みに感銘を受けたから。
いつお邪魔しても、変わらぬ空気が流れ、いつもの酒肴をいつもと同じに常連さんたちが楽しまれている。
変わらないと言うことの尊さ。
多彩に酒肴を楽しむのももちろんいいけれども、店の定番品をじっくりと堪能する。そんな愉悦もあることを知った。
「ふくべ」はその代表格だ。

ここに来ると必ず注文する品がある。まずは「菊正宗」樽酒のぬる燗。木樽の清々しい香り、熟成がかかってくるとこなれた味わいになり、日数の経過とともに変化を楽しむのもいい。そしてそれに合わせるのが、「くさや」。新島産の青ムロアジだ。
「東京には、ドリアン並にすごい臭いの珍味がある」
九州・熊本から上京して、最初に興味をそそられた東京郷土酒肴。
だけれども、どの居酒屋にでも常備してある、というものではなく、あたしにとっては居酒屋で見かけたら、とにかく注文をしてみると言う珍味中の珍味だった。その感覚で「ふくべ」でも注文をしてみると、とんでもなく美味しい。これまでのものを遥かに凌駕していた。
しっとり柔らかい半生感。口に含めば芳醇な香りが広がる。そこへ「菊正宗」樽酒を流し込めば、忘我の境地。この世にこんなうまいもんがあるのかと驚いた。
通常は周囲のお客さんに気を遣って注文のタイミングを図るのだけれども、「ふくべ」では、席に着いた瞬間に、「菊正宗」樽酒のぬる(ぬる燗のこと)とセットで注文する一品になった。ここではみんな「くさや」を注文するから、何の気兼ねも要らないのだ。
「ふくべ」のくさやを初めて食べたときに、あまりの美味しさに、目を見張っていたところ、
「美味しいでしょう。うちのは新島産のとびきりいいのを仕入れているんですよ」と二代目正雄さんが頬を緩ませながらそうおっしゃっていたのが今でも心に刺さっている。

夏真っ盛り8月の口開け16時半。
暖簾がかかると同時に、すっと入店し、L字カウンターの右端の席に実に自然体で座られるひとり呑み男性客あり。カジュアルな格好をされているからご近所さんかしらと眺める間もなく、次々に酒呑みさんたちが暖簾をくぐる。
「16時半から予約をしていたものです」
男女二人連れ、女性二人連れ。四人連れは上階へと案内される。その合間にも、常連ひとり呑み男性客たちが扉入ってすぐのカウンターに着席。
「京極スタンド、よかったですねぇ」
早速、京都の老舗酒場の話で花を咲かせている。
「何になさいますか?」
カウンターの席順は、入店順ではなくアトランダムになっているのだけれども、ちゃんと入店順に、注文を取っていく若(三代目:北島正也さん)。その把握力に感服しながら、やっぱりこの日もあたしは、
「『菊正』樽のぬると、くさやを」
定番オーダー。他のお客さんたちも、
「ぬるで」
「自分もぬるで」
連日異次元級の酷暑を記録している日々、
「大瓶をひとつ、そのあと、ぬるを」
そんなオーダーも混じる。
そして、トマト、マグロ、たらこ、イカあえ、わさびとさまざまな酒肴がオーダーされていくのだけれども、やっぱりそこには「くさや」も入っている。
あまりにもみんなが「くさや」を注文するものだから、女性二人連れ客が笑っている。

二代目正雄さんが「ふくべ」を継いだのは、銀行員を定年まで勤め上げた後のことだ。つまりは61歳からのスタートになる。
「業態は違ってもいいから、"ふくべ"という名前は残してほしい」
お父様である初代の願いとともに、受け継がれた。
それまでは銀行員ひと筋。二代目を継ぐにあたって、
「経営者なのに、聞かれて答えられないのは恥ずかしいことだ」
と、お酒の勉強をするために毎日図書館に通われたのだそう。そして、食材の仕入れも自ら、築地に足を運び、いろんなものを食べては吟味を重ねてきた。
「二人とも、食いしん坊だから」
正雄さんと一緒に切り盛りしてきた女将・光子さんが笑う。しかし、飲食業とは真逆のお堅い職業からの転身。大変なことは山のようにあったことだろう。
「最初のうちはね、"僕"、"私"って言うんだけれども、話しているうちに"わたくしは"になるほど、真面目な人だったんですよ」(女将さん)
それじゃ商売人としてはやっていけないと、修正を重ねる日々でもあったそう。
その一本筋の通った生真面目さは、ご商売ぶりにもよく表れていた。
お酒はちゃんと正一合。そして初見の客でも若輩者でも正統なる酒呑みとして扱ってくださる。
かといって、硬い一面だけではなく、燗つけしながらの接客の様も滑らかだった。それでいて、馴染みすぎることはなく、常に丁寧。発する言葉も実に端正。ピンと背筋が伸びた、美しい立ち姿。そのかっこよさにも、あたしは惚れていた。

とある媒体の取材で、正雄さんと一緒にカウンター越しに撮影をさせてもらう機会に恵まれた。もちろん手元には、徳利も置かれている。しかし、実際には呑む必然性はない撮影。徳利はいわゆる飾り的なものだったのだけれども
「一本、おつけしましょう。この方、呑むのがとてもお好きな方ですから」
わざわざ燗をつけてくださった。そんな優しい顔もお持ちでいらっしゃった。
正雄さんのお人柄にも惚れて通うお店でもあったのだが、2017年、ひとりぶらりとお邪魔すると、正雄さんの横に、若い方が立っていらっしゃった。息子さんだった。「三代目になるんだ」と常連さんたちが教えてくれた。それがあたしと若の初めての出会いだった。
以降、お邪魔するたびに、
「クラシマさん、いつもありがとうございます」
若がそう声をかけてくださるようになった。たった一回の出会いで、ちゃんと顔と名前を覚えていらっしゃる。そのことも嬉しかった。
この日も、口開けすぐから集っている常連さんたちとそれぞれの日常に合わせた会話をされていらっしゃる。その合間にも
「女将さん、四番さんのオーダーをお願いします」
背面に壁のように並ぶ一升瓶棚向こうのお客さんたちの食と酒の進み具合までも把握されている。
「若は後ろにも目があるみたいですね」
思わずそう言うと、隣り合った男性客も大きくうなずく。
「何かお作りしましょうか?」
手元の酒とつまみが少なくなってきたタイミングに合わせてさりげなく聞かれる様も、言い方も含めて品があるのも、二代目正雄さんを彷彿とさせる。

「雨、降っているでしょう。どうぞ中へ」。
外で席待ちをされているお客さんへのお気遣い。そして
「新幹線の時間ですか?」
時計の針を気にされていたお客さんに声をかけられる。
ここは八重洲、東京駅のすぐそば。出張帰りに立ち寄るお客さんも多い。そのことを念頭に、聞かれているのだ。気配り、目配りがすごい。
そんな若も、前職は飲食業とは全く別の、福祉の仕事をされていた。
おそらく飲食業とはまた違う気配りがとても大切になる仕事、その頃から培われたものが、今につながっているのだろう。人と関わることも好きだという若の人柄もよく表れている接客ぶりだ。
「お酒のことも、継ぐことになってから勉強しました」
とおっしゃるが、その勉強のされ方も、衒いがなくていいのだ。
僭越なることだが、お邪魔するたびに、
「クラシマさん、今、どんなお酒がお勧めですか?」
そう尋ねられる。
この日も入店するや否や、
「真夏に出すお酒、どんなのがいいですかねぇ」
と尋ねられた。
そんな若の素直で真っ直ぐな姿勢が、あたしは好きだ。
令和4(2022)年2月から12月まで11か月にも及ぶ期間をかけて、老朽化した建物を建て替えに入る直前にも、
「クラシマさんのお勧めの酒場を教えていただけませんか? 休業している間に、それらのお店に足を運んでみようと思いまして」
そんな真面目さがある人だ。
休業自体は、年明けすぐからを予定されていたのだけれども、常連さんから「立春朝搾りを呑みたい」と請われ、休業開始を後ろ倒しにして、立春朝搾りの日を特別二日間開催された。お客さんを大切にする酒場でもある。

その建て替えあとお邪魔したならば、まるでデジャブ。更地にして0からの建て替えと聞いていたので、あの燻銀の雰囲気がなくなっていたら惜しいなと思っていたのだが、全く同じ。
「隣店との関係で、幅が狭くなったんですよ」と若に教えてもらわなければ、違いに気づかなかったほど。すごい再現性だ。
旧店舗時代も2度ほど貰い火があったけれども、その都度、これまでと同じ造作での再建にこだわってきた「ふくべ」。その精神が若にも引き継がれている。
「今の壁の色は、86年前にふくべが開業した時と同じ色合いにしました。外壁も50年ほど前は黒色だったので、その時と同じ色合いに戻しました」
原点に立ち戻りながら、老舗酒場の歴史を紡いでいかれるのだ。そこには老舗だからこその矜持も感じられる。

真夏でも燗酒を愛する常連さん達と一緒に、「菊正樽のぬる」を堪能し、滋賀の銘酒「北島」の熱燗を重ねる。
店主と同じ名前の「北島」。贈答用にも良いかと、二代目正雄さんの時から扱い始めた銘柄だ。
「北島」の中でも、どの味わいのものを店で出すか吟味をしてのセレクト。旨味の乗った一本に決めた。
女将さん曰く、
「『菊姫』にも通じるところがあるからうちのお客さん達の口にも合うみたい」。
さらにもう1酒。「ふくべ」は、各都道府県の定番銘柄(現在は42種類ものお酒を用意している)が呑めるのも看板なのだけれども、それらとは別に若が都度仕入れている季節のお酒もある。この日は福岡の銘酒「庭のうぐいす いなびかり」冷酒があった。メロンのような果実味も感じられるお酒だ。
常連さん達が興味津々に「どんな味わいなの?」と聞けば、「香り鶯」と若が言い、「口に入れて烏」と常連女性客が続ける。
あまりの阿吽の呼吸に拍手が沸き起こると共に、
「どんな味かちっともわからない」とみんな爆笑。

つまみは、カブト付きで出してくださったくさやに続き、おでんを頂く。「ふくべ」の人気つまみの一つだ。こんにゃくにさつま揚げ、焼き豆腐には醤油をひと垂らしして出してくださるのが、「ふくべ」スタイル。鰹出汁の香りも高く、酒が進む。
そこへ少女のような笑顔の女将さんが、
「クラシマさんはお酒呑みだから、甘いものは召し上がらないかもだけれど」
とおっしゃりながら、自ら仕込まれた坊ちゃんカボチャの煮物を白菜漬けと共に、差し入れしてくださった。恐縮しながら口に運ベば、実に良い塩梅に出汁が煮含まれている。格別に酒に合うひと品だ。

二代目正雄さんと「ふくべ」を切り盛りされてきた女将さん。
溌剌として愛嬌のある接客をしてくださるのが、お酒をより一層美味しくさせてくれる。
コロナ禍前に病で倒れられて以降、店のメインを若に譲られた二代目正雄さん。女将は変わらず店に立ち、厨房などを取り仕切っていらっしゃるのだが、その合間を縫って、お客さんたちにも声をかけられる。
この日も、カウンターに集っている常連さんたちに、
「天気がいいから日射病にならないようにね」と気遣い、
ペアルックのような似た色合いの格好でいらっしゃった常連年配ご夫妻をみんなが冷やかしていたところ、
「お年頃だからね」と女将。
これには一堂、笑う。
女将さんとの会話も楽しみに、みんな足を運ばれているのだ。
二代目正雄さんとの結婚前から、「ふくべ」の手伝いをされていた女将さん。東京・大森で商いをされている家に生まれたゆえに
「"いらっしゃいませ"、とか、声が大きく出るのよ」(女将さん)
ご実家には職人さんたちも出入りしていたので、人馴れもしていた。その気量を買われたのだろう。
「義父がね、すぐ海外にいっちゃうのよ。その間のお手伝いだったのね」
初代の思い出を語ってくれる。
ベネチア、シンガポール、ニューヨーク...。トランクいっぱいにフィルムを詰めて海外を旅されていた初代。気づけばどこかに旅をしている人だった。そして帰国すると、撮影してきたものの上映会。ご自身でナレーションまで付けられていたそう。
そんな旅の間、女将さんは店を手伝っていた。
さらに初代のお人柄を教えてくれる。
「近隣のOLさんが持ってくる女性向けの雑誌『anan』とか『non-no』とかも愛読していて。ハイカラな人だったのよ」

あたしがこれまでイメージしていた"老舗銘酒酒場の初代店主"とは大きくかけ離れた姿。さらにユニークなのが、正雄さんと結婚して構えていた大森の家に、「ふくべ」営業中にもかかわらず、晩ごはんを食べにいらっしゃっていたと言うのだ。なんたる自由人。女将さんがそれだけ初代に可愛がられていたという証左でもある。
八重洲小町とお呼びしたくなるほどの可愛らしさをたたえた女将。町内会の方々にも愛され、町の人たちがいるからこそ、店を続けてこられたとおっしゃる。
結婚後は、お店の手伝いからは離れ、「ふくべ」に戻ってきたのは、二代目が継がれる時。かなりのブランクがあったのだけれども、すんなり馴染めたのも、町会長さんたちの応援もあってこそ、と感謝の言葉を口にされる。
厨房からカウンターにさっと顔を出される、その瞬間にもパッと明るい華やぎが生まれる。天性の女将さん気質をお持ちの方だ。常に周りで笑いが起きる。
この日もしたたか呑んで店を後にするあたしに
「足元気をつけてね。流されちゃうから」
外は土砂降りの雨、ではなく、傘も不要なほどの小糠雨。流される隙もない。女将のその言葉に常連さんたちも一緒に笑いながら見送ってくれた。
その合間に、カウンターと厨房を仕切る暖簾越しに見えた二代目正雄さんのご様子にも胸を打たれた。

体調に合わせて週3日ほど店にいらっしゃる正雄さん。この日もバックヤードで洗い物をされていたのだけれども、水切りかごに入れられていくお皿たちが、どれもきっちりと歪みなく並べられているのだ。その正確さ、繊細さ。真っ正直さが全く変わっていらっしゃらない、その姿が垣間見えて、ひとり心震わせもしていたのだった。
女将の朗らかさと、若の素直さと、二代目正雄さんの真面目さと。
さすが昭和の時代から令和の今に至るまで酒呑みたちに愛され、尊敬され続けてきた酒場であると、改めて感銘を受けた夜でもあった。

店名 |
ふくべ |
住所 |
東京都中央区八重洲1-4-5 |
電話番号 |
03-3271-6065 |
営業時間 |
月~金:16:30~22:30 |
定休日 |
土・日・祝日 |
アクセス |
JR東京駅八重洲口より徒歩5分、銀座線;日本橋駅A7出口より徒歩2分 |