第7話 ミーツ・リージョナルがなかったら、京都には住まなかったと思う

 京都に住むことになったきっかけのひとつに、月刊誌『ミーツ・リージョナル』との縁がある。かれこれ25年以上、書評というか本についてのエッセイを書いている。長いお付き合いだ。鷲田清一さんとの共著『哲学個人授業』(バジリコ、のちにちくま文庫)のもとになる連載もこの雑誌だった。
『ミーツ・リージョナル』は大阪を中心に、神戸や京都の情報を扱う雑誌だ。少し範囲を広げて、奈良県や滋賀県、和歌山県のことが載ることもある。写真がたくさんあって、飲食店の情報が多いが、ファッションやカルチャーも載っている。キーワードは「街」と「人」だろう。
 連載が始まってから、毎月届く『ミーツ・リージョナル』を読むたびに、「関西には魅力的な店や街が多いなあ」と感嘆していた。取り上げられるのはチェーン店や大型商業施設の店よりも、個人経営で規模もあまり大きくない店が多いし、新規開店の店ばかりでなく、長く続いている店もよく取り上げられる。そのバランスがいい。
 タウン情報誌と呼ばれるものは70年代ごろからいろいろあって、ぼくも『ぴあ』や『シティーロード』、『angle』などを愛読してきた。ネットのない時代、映画を見るにも展覧会に行くにも、まずは『ぴあ』や『シティーロード』をチェックしてから予定を立てた。70年代、80年代のナウなヤングにとって『ぴあ』は必読だった。
 でも、『ミーツ・リージョナル』は『ぴあ』とは違う。街の情報という点では『angle』や『Hanako』、『散歩の達人』が近いかもしれないが、読んだ印象はそれらともまったく違う。『ミーツ・リージョナル』の世界は独特だ。
 たとえば飲食店を紹介するページ。ぼくも30代、40代のころは飲食店や雑貨店などの「お店取材」をしたことがあるけれども、インタビューや撮影はたいてい営業時間外におこなった。営業のじゃまにならないように、お客さんに迷惑がかからないようにというのがその理由だ。ところが『ミーツ・リージョナル』のお店写真は、営業時間中でお客さんも写り込んでいることが多い。このお客さんたちの表情がいい。「おいしい」「楽しい」と全身で伝えている。記事にはお客さんのコメントが入ることもある。営業中なのか営業時間外なのかで、店の空気はまるで違うし、写真にはその空気が写り込んでいる。
 取材する側からすると、営業時間外のほうがインタビューも撮影も楽だ。営業時間中にインタビューするとインタビュイー(インタビューされる人)である店主やスタッフの気が散りやすいし、あれこれ用事が入ってインタビューを中断することもある。お客さんに聞かれたくない話はできない。撮影も営業時間外であれば椅子やテーブルを移動したり照明を変えたりストロボを使ったりとあれこれできる。営業時間中に撮影する場合は、お客さんにその旨を伝えなければならない。写真に写り込んでもいいかどうかを確認しなければならないし、写り込みたくないというお客さんがいた場合は写り込まないフレーミングを探すか、お客さんに移動をお願いするか、そのお客さんが食事を終えて帰るのを待たなければならない。「写ってもいいよ。雑誌ができたら送ってね」というお客さんがいたら送付先を聞かなければならないし、もちろん後日送らなければならない。ストロボや三脚は使えないなど機材に制約もある。酔っ払ったお客さんに絡まれる可能性もある。
 そういえば、いつだったか、ある雑誌で梁石日さんのインタビューをしたときのこと。西新宿の路上で撮影をしていると、編集者が通りがかりの人からお金を要求されたことがあった。そのときはぼくも梁さんも気がつかなかったのだけど、取材後、編集者から「実はお金を払えと言われまして」と打ち明けられた。編集者がどう対応したのかは覚えていない。「払います」と言って、後日、編集部まで来るように伝えたような気がするけれども......。
 それはさておき、取材する側からするとめんどうなことも多い営業時間中の撮影なのだが、その手間を惜しまないことによって、『ミーツ・リージョナル』の飲食店紹介誌面はその場の雰囲気がいい感じで伝わってくるのだと思う。

『ミーツ・リージョナル』は大阪に本社がある出版社、京阪神エルマガジン社が刊行している。1989年の創刊だ。あのころはいろんな雑誌が創刊された。女性誌の『CUREA』『SPUR』。中高年向けの『サライ』。『月刊Asahi』や『CUTiE』、『SAPIO』など、89年に創刊されたけど、いまはもうない雑誌も数多い。ぼくも88年に洋書店を辞めて、ミリオン出版で新雑誌の立ち上げに加わった。『レジェンド』というその雑誌は、コンピュータとソフトなエロを融合しようというコンセプトだったけれども、ぜんぜん売れず、わずか2号で終わってしまった。
 その後、1990年、ぼくは『宝島』の編集部に入った。『宝島』では85年ごろから洋書の紹介コラムを連載したり、特集に関わったりしていたのだけれど、月刊から月2回刊になるので編集部に入らないかと誘われたのだった。あの80年代末から90年代なかばまでが、日本の雑誌の黄金時代だったのかもしれない。『ミーツ・リージョナル』もそうした勢いの中で生まれ、『宝島』を含め多くの雑誌が姿を消す中、しぶとく生き抜いて今も続いている。

 京阪神エルマガジン社は神戸新聞のグループ会社で、1979年の創業。「エルマガ社」あるいは「エルマガ」と呼ぶ人が多い。昔は『L Magazine(エルマガジン)』という雑誌も出していたが、2008年末で休刊した。
 神戸新聞の子会社なのに神戸ではなく大阪に本社を置いているところがおもしろい。関西では大阪の人口が飛び抜けて大きい(大阪市・282万人、京都市・143万人、神戸市・150万人。府県の人口では大阪府・877万人、京都府250万人、兵庫県530万人)。大阪のほうが京都にも奈良にも神戸にも行きやすく情報も集まりやすいということなのだろう。
 社名が「神戸エルマガジン社」ではなく「京阪神~」というところにも関西文化を感じる。人口や経済規模でいうと「京阪神」ではなく「阪神京」の順番だが、「阪神京」という人はいない。府県単位で「阪兵京」という言葉も聞いたことがない。やっぱり都がありいまも京都御所がある京都がいちばんということなのか。神戸ではなく奈良を入れて「京阪奈」という言葉もある。都としては奈良の方が京都より古いのに。
 創刊編集長の江弘毅さんによる回顧的エッセイ『ミーツへの道』は本の雑誌社から絶賛発売中。WEB本の雑誌にはいまも同書が刊行された2010年6月の情報が載っているのでそれを覗いてもらうとわかりやすい。

『ミーツ・リージョナル』に載っているのは京阪神の情報なので、それ以外の地域の書店ではあまり見かけない。東京では紀伊國屋書店の新宿本店とかブックファーストの新宿店、青山ブックセンター、ジュンク堂書店池袋本店などで手に入る。「毎号買っています」という東京の編集者もいる。
 毎月、東京で『ミーツ・リージョナル』を眺めながら、「この焼き鳥屋、うまそうだなあ」とか、「この古着屋はいい感じだな」と思い、「行ってみたいな。うらやましいな」と思っていた。高校生のころ『平凡パンチ』や『週刊プレイボーイ』を見て東京に憧れたように。京都・大阪方面で仕事があるときは、誌面で紹介された店を覗いたりもした。

 2006年、江弘毅さんが京阪神エルマガジン社を辞めて、中島淳さんとともに株式会社140Bを創設した。エルマガ社で営業をしていた中島さんが社長に就いた。江さんと中島さんはぼくと同じ1958年生まれ。140Bは編集者集団として自社出版物のほか他社や行政などの出版物の企画・制作なども行う。ちなみに会社名は当時入っていたビルの部屋番号。ダイビルというクラシックなビルだった。ぼくやエルマガ社の人は略して「マルビー」と呼んでいる。
 江さんは編集者としてだけでなく、エッセイストとしても売れっ子。食をはじめ関西の文化についてたくさんの本を書いている。『ミーツ・リージョナル』でぼくの連載を担当してくれて、140Bに加わった青山ゆみこさんもベストセラーになった『ほんのちょっと当事者』はじめエッセイストとして活躍している。
 2007年に『京都に住まえば』という雑誌が淡交社から出た。編集は140B。ぼくもいくつかお仕事をいただいた。これが東京・京都の二拠点生活をはじめるきっかけになった。もっとも、取材をしているときは、まさか京都に住むことになるとは予想していなかった。しかし、後日、できあがった雑誌が送られてきて、全体を眺めたり取材時のことを思い出したりするうちに、雑誌のタイトル通り、「京都に住んでみたい」「京都に住んだらどんな感じだろう」と思うようになった。

 京阪神エルマガジン社からは、二拠点生活を始める顛末を書いた『そうだ、京都に住もう。』と、『65歳からの京都歩き』という本を出してもらった。編集は『ミーツ・リージョナル』で連載を担当してくれた村瀬彩子さん。村瀬さんには留守中に洗濯物の取り込みをお願いするなど、いろいろお世話になった。異動で担当を外れてからもお付き合いいただいている。二拠点生活を始める時、そして京都に移住する時、村瀬さんがいるということも安心材料のひとつになった。