【今週はこれを読め! ミステリー編】マルク・ラーベ『スズメバチ』が抜群におもしろい!

文=杉江松恋

  • スズメバチ (創元推理文庫)
  • 『スズメバチ (創元推理文庫)』
    マルク・ラーベ,酒寄 進一
    東京創元社
    1,650円(税込)
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 シリーズ三冊目なのだけど、ぜひとも読んでもらいたい。

 スリラーとして抜群におもしろいのがマルク・ラーベ/酒寄進一訳『スズメバチ』(創元推理文庫)である。600ページ弱あってけっこうな厚さなのだが、何の気なしに手に取ったら、止まらなくなって最後まで一気に読み終わってしまった。なんだこれ、すごく面白い。

 シリーズの骨格だけ先に書いておく。主人公のトム・バビロン主席警部は、ベルリン州刑事局の刑事である。彼が臨床心理士のジータ・ヨハンスと協力して難事件に当たるというのが、第1作『17の鍵』と第2作『19号室』(ともに創元推理文庫)からの基本形だ。これが本巻では少し壊れる。相棒同士が協力し合えなくなったために、よりスリルが高まることになるのである。詳しくは説明しないが、警察小説としてはイレギュラーな物語になる、ということだけは書いておこう。

 物語は2019年10月18日午後9時38分のベルリン市ヴァルトビューネから始まる。ヴァルトビューネというのは、割注によればベルリンのオリンピアパルクにある野外音楽場なのだそうだ。そこで今、来独したブラッド・ギャロウェイというロックスターのコンサートが開かれている。名前の明かされない男が出てきて、ギャロウェイの楽屋を目指す。男はジャケットの内側にクッション封筒を隠し持っている。中に何が入っているのか男は知らない。〈スズメバチ〉という相手から受け取ったのだ。その中に入っているものには破壊力があると言われた。何なのかは想像するしかないが、プラスチック爆弾のようなものではないか、と男は思っている。目当ての女を見つけ、男は封筒を手渡す。

 予定された演奏曲目が終わり、観客がアンコールを待つ間にギャロウェイは女から手渡された封筒を開ける。困惑と嫌悪がその顔に浮かぶ。封筒の中身が以下ようなものだったからだ。

----アルミケースには凝固した血の上に載った小さな白い羽根が入っていた。羽根の一部は黒々とした血に張りついて、ところどころ沈んでいる。まるで羽根が血を流し、自分の血の中で身もだえしているみたいだった。

 その翌日の夕刻、トム・バビロンは死体発見との報を受けて急行する。現場はなんと警察教育センターと消防士および救急救命士養成アカデミー内にある警察用ゲストハウスである。そこでブラッド・ギャロウェイが死んでいた。死因は全身から血が失われたためで、男性器が切り取られていた。椅子に縛り付けられており、じわじわ死んでいくのを殺人者は眺めていたようだった。胸には文字が書かれていた。「愛する者の命は大事か?」

 この事件に関する捜査が現在パートで描かれていく。容疑者として目されたのは意外な人物で、そのためにバビロンは単独行をしなければならなくなるのだ。

 並行して描かれるのが過去パートである。こちらの時間は1989年5月2日午後5時48分から始まる。場所はベルリン市近郊、シュターンズドルフである。日付を見れば世界史に詳しい方ならすぐにお判りかと思う。この時、ドイツは東西に分割されていた。ドイツ民主共和国とドイツ連邦共和国、ベルリンは前者、いわゆる東ドイツに属していた。

 過去パートで視点人物として登場するのはインゲという女性だ。二人のこどもを車で迎えに行くところである。2時間も幼い二人を放置してしまったことに、インゲは胸を痛めている。なんてひどい母親だろう、と。二人のこども、トムとヴィオーラの兄妹に、インゲは家に帰ってもおばさんのところに行っていたと父親に対して嘘を吐くように言う。このトムが、後のトム・バビロンなのである。つまり東ドイツ時代の彼の母親が過去パートの中心人物になるのだ。

 本シリーズの特徴は、東ドイツ時代に起きた出来事が現在にも影響を与える未解決の問題として描かれることである。『17の鍵』『19号室』は話の内容が連続していて、この主題が深く掘り下げられていた。上に名前が挙がったトムの妹、ヴィオーラ(ヴィー)は幼いころに行方不明になり、水死体として発見された。警察の公式記録で死亡したことになっているのだが、トムはそれを信じていない。どこかでまだ生きているのではないかと考えており、それを確かめるために警察官になったのだ。本文にはときどき、そこにいないはずのヴィーが登場し、トムにしか聞こえない声で話しかけてくる。この女性はなんだろうか、と『スズメバチ』から読んだ方は不思議に思われるかもしれないが、そういうことである。

 刑事であるトムが組織を離れて単独行をしなければならなくなる現在パートと、母インゲが何か夫にも言えない秘密を抱えているらしい過去パートが並行していくわけで、これはトム・バビロン自身の物語と考えていいだろう。これまでの2作でも、捜査中の事件と並行してトムは、妹が巻き込まれたと思われる事件についての疑念を抱き、非公式な形でそれを探ろうとしていた。そうした個人の物語が3作目にしてついに前面に押し出されることになったのである。

 二つの時制をつなぐキーワードが冒頭に出てきた〈スズメバチ〉なのだ。おそらくは何かのコードネームで、何を表しているのかは最初まったくわからない。その謎にいつトムが気づき、追究を開始するのか。そしてパートナーであるジータがトムと離れてどのような形で捜査に参加するのか、ということが興味の中心となる。複数の叙述を使って多方面から事件を組み上げていくプロット、佳境に入ったところで場面を中断し、後の展開に関心を持たせる叙述の技法など、ラーベは実に巧みな作家で、その先が知りたいという気持ちが途切れることがない。

 特筆すべきは終盤の展開だ。次々に事実が判明するだけではなく、危機的状況が連続するために読書速度が急上昇するのだ。それまでの部分だってさくさく読めていたのに、こうなるとページをめくる動作が先を知りたい気持ちに追いつかなくなる。ここまでスリラーの書き方が上手い作家はそれほどいない。どんなすれっからしの読者でもラーベに易々と屈服させられてしまうだろう。いや、恐れ入った。

 本シリーズは四部作として書かれる予定だという。物語の結末も、次巻での波乱を予感させる形で終わっていて、つくづく読者の気持ちを煽るのが巧みな作家だと思わされる。『スズメバチ』の中でトムは結構な痛手を負っており、それがどうなるのかも気になるところだ。まんまと術中にはまって悔しいのだが、2027年に完結篇が刊行されたら、私は絶対に読んでしまうだろう。予告されている題名は『ヴィオーラの隠れ家(仮)』である。え、ということは。

(杉江松恋)

  • 17の鍵 (創元推理文庫)
  • 『17の鍵 (創元推理文庫)』
    マルク・ラーベ,酒寄 進一
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  • 19号室 (創元推理文庫)
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