【今週はこれを読め! エンタメ編】5歳の「とっちゃん」の世界〜藤野千夜『ぼく、バカじゃないよ』
文=高頭佐和子
藤野千夜氏の小説が、2ヶ月連続で刊行? 何かの間違い......ではない。
今作の舞台も、前作『団地メシ!』(角川春樹事務所)、『団地のふたり』(双葉文庫/U-NEXT)と同じように団地である。主人公は高齢者でも中年でもなく、思春期の少女でもない。藤野千夜作品史上たぶん最も若い幼稚園児だ。
主人公の視点で語られる小さな出来事は、忘れかけていたことを思い出させてくれる。テレビが映らなくなると、上や横をぽんぽん叩いていて解決していた時代を知っている人には、なんだか懐かしい気持ちにもなる一冊だ。
とっちゃんは5歳の幼稚園児で、ひーくんという弟のお兄ちゃんだ。通っている幼稚園には、いじわるな子がいるので好きではない。小倉の一軒家に、家族四人と犬のポーちゃんで暮らしていたが、お父さんが転勤になって横浜に引っ越すことになった。今度住むのは団地で犬は飼えないので、ポーちゃんは一緒に行かないのだとお母さんは言う。とっちゃんは、ポーちゃんのことが気になって仕方がない。
引っ越したら幼稚園には行かなくてよいのかと思っていたけれど、団地の中にあるお寺の保育園に通うことになった。行きたくないと言ったのだけれど、お兄ちゃんだからとお母さんに説得されてしまった。初日から仲良くなったあかねちゃんは、いじわるをしない子で「おゆうぎのやり方」も教えてくれた。とっちゃんが他の子に「バカ」と言われて、みんなに笑われた時には「バカってゆったら、ぜったい、いけないんだよ」と言って怒ってくれた。家に帰ってお母さんに「ぼくってバカなの?」と聞いたら、お母さんは心配して、保育園でバカと言われたの?誰に?と、とっちゃんに聞いた。なんと答えれば良いのかわからないとっちゃんは、どうしてか「あかねちゃん」と答えてしまう。
本当は、「ぼくがバカじゃないならそれでいいんだ。あかねちゃんが、バカってゆったらいけないって怒ってくれたんだよ」ってとっちゃんは言いたかったのだと思う。だけど、うまく説明できないのだ。
何度もポーちゃんの話をしてお母さんを困らせたこと、保育園に行きたくなくて熱が下がらなければよいと思ったこと、自転車を買ってもらったけれど乗りたくないこと......。
そういう気持ちが、とっちゃんがゆっくりとお話ししてくれているように語られていく。子どもらしい言葉遣いが愛しくて、胸が締め付けられるような気持ちになった。
私も小さい頃は、自分の気持ちがうまく言えなかった。いじわるをされてもやめてと言えず、幼稚園が嫌いで親を困らせた。園庭にある人気の遊具を使ってみたかったのだけれど、トロい私にはなかなかチャンスが巡ってこない。「私もやりたい」と主張することもできなかった。いつの間にか「口だけは達者だね」と言われるような感じに成長して、マシンガンのようにうるさい大人になっていたのだけれど、心の中にあるものをうまく言葉にできなかったり、他の人の速度に全然ついていけなかったりするもどかしさは、全部過去のものになったわけではない。
お父さんもお母さんも、とっちゃんのことをよく考えてくれている温かい人たちだ。高圧的だったり、話を聞いてくれないというわけではない。保育園に行くように言ったり、自転車の練習をさせたがったりするのは、とっちゃんを困らせるためではなく、他の子と違っているところがあることを心配しているのだ。そういう大人の気持ちは、私にもわかる。歩く速度も進む方角も、違っていて当たり前のはずなのだけれど、成長するにしたがって、人より遅かったりすることが辛くなってくるんだよね。
心がチクチク痛んだところで、時々とっちゃんの家に遊びにくる大好きなおばあちゃんが、こんなことを言う。
「とっちゃんは、それでええよ。ゆっくりおぼえて、いつか年をとったら、なんでもできるようになっとるで」
そんなふうに、そのままの自分を自然に受け止めてくれる人が身近にいることって、とても幸せなことだ。それは小さな子どもだけでなく、大人になっても同じなのかもしれない。今もできないことがいっぱいあるというおばあちゃんの言葉に「私もそうだよ」とうなずきながら、そして藤野氏の小説に登場する大好きな人々を思い出しながら、そんなふうに思った。
(高頭佐和子)