【今週はこれを読め! エンタメ編】ふたりの視点で描く恐ろしい短編集〜井上荒野『私たちが轢かなかった鹿』

文=高頭佐和子

  • 私たちが轢かなかった鹿
  • 『私たちが轢かなかった鹿』
    井上 荒野
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 人間は怖い。見知らぬ他人も怖いけど、実は身近な人間の方が、何を考えているかわからなくて怖いのかも。井上荒野氏の小説を読むといつもそう思う。

 ひとつの出来事を、当事者ふたりの視点で描いた小説集である。同じ時間を過ごしていても、一方には想像のつかないことをもう一方は考えている。日常がボロッと崩れそうになる瞬間までの緊張感あふれる時間と、驚愕の展開が刺激的だ。読んでいるうちに、どんどん落ち着きがなくなっていった。

 表題作の主人公は、22年の付き合いがある親友同士だ。初めて出会った時、装幀家の杏子は離婚したばかりで、4歳の息子・晴を育てていた。イラストレーターの真弓は、年上の恋人を亡くしたばかりだった。なんでも打ち明けあい、親戚のように互いの家を行ったり来たりしてきた。高校を中退し通信教育でイラストを学んだ晴に、手を差し伸べたのは真弓だ。晴は母の親友のアシスタントとなりひとり暮らしを始め、杏子は東京から程よい距離の田舎に引っ越して、山に住む鷲尾という男と出会った。恋愛についてはいつも真弓に報告するのだが、新しい恋人のことはまだ伝えられていなかった。ある日、真弓からメッセージが送られてくる。杏子と違いずっと恋愛をしていなかった真弓だが、しばらく前から晴と付き合っているというのだ。

 成人した息子が、母親の親友と恋愛関係に。居心地が悪いと感じるのも無理はないだろう。登場人物たちも、どうふるまうのが正解なのか手探りな状況だ。前半では、戸惑いを見せないように苦心しながら、訪ねてきた息子と親友をもてなす杏子の複雑な心境が、後半では、若い恋人と長年の親友に対する真弓の意外な感情が描かれる。道中に晴が鹿を轢きそうになったことと、ワイルドな山男・鷲尾の存在を絡ませ、親友同士のふたりが相手に見せまいとする感情の揺れが、見事に描かれていく。 

 ハウスクリーニング中の家で起こるとんでもない騒動を描いた「不幸の****」。夫の病気が検査で発見されたことをきっかけに、過去の隠し事が発覚してしまい関係が変化していく夫婦を描いた「犬の名前」。大学教授の男とその不倫相手の女が、家出した男の娘に振り回される「つまらない掛け時計」。80歳の小説家と彼女の担当編集者だった33歳の男が暮らす山荘に、招かれざる客がやってくる「小説みたいなことは起こらない」。5篇の主人公たちの中に、共感できるタイプのキャラクターはいない。だが井上荒野氏の巧みな心理描写のせいで、彼らの感情が心の中に忍び込んでくるような怖さから、逃れられなくなっていく。

 本当の気持ちを、親しい人に全部話していると言える人はいるのだろうか。誰だって、他人が予想もしない秘密や本音をいくつかは隠しているのではないか。いつかこういう危険な物語の主人公になってしまう可能性が、誰にでもあるのではないだろうか。というより、記憶を封印したくなるような出来事が、私にもあったではないか。あの時相手は、本当は何を考えていたのだろう。

 思い当たることがある方には、ぜひ読んでいただきたい極上の短編集である。

(高頭佐和子)

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