【今週はこれを読め! エンタメ編】読者を引き摺り込む心理描写にゾクっ〜中西智佐乃『橘の家』

文=高頭佐和子

  • 橘の家
  • 『橘の家』
    中西 智佐乃
    新潮社
    2,090円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HMV&BOOKS

 小さな子どもが、一戸建ての家の二階から落ちる場面から物語は始まる。母親が電話に出ている間にベランダに出てしまい、蝶を追いかけようとして落下したのだ。庭にある橘の木の上に落ちたため、頬に擦り傷がついた以外に怪我はなかった。恵実という名のこの幼児は、命を救ってくれたともいえるこの木に、ゆるく縛り付けられるようにしてその後の人生を送ることになる。半世紀近い年月が、家に出入りする人々の思いや時代の変化と共に描かれていく。

 恵実の父親である守口伸一が、遠い親戚から購入した土地に家は建てられている。「橘の木を大切にする」ということを条件に、安く譲ってもらったのだ。木を切りたいと考えた母・秋江は、売主の親戚に話を聞こうとするが連絡が取れず、不動産屋に聞いてもはっきりしたことは教えてくれない。その後、不動産屋の紹介だという拝み屋の女性が家を訪れ、橘の木には子孫繁栄の力があること、切らないのは子どもたちのためでもあることを秋江に告げる。やがて家には、妊娠を願う女性たちが橘の木を拝みに来るようになった。恵実がお腹に触れて温かくなると子が授かるという噂も広がり、占い師が定期的に女性たちを連れてくるようになる。   

 守口家は地元で「橘の家」と呼ばれるようになった。恵実と兄の豊は、家のことが原因で学校では避けられていて、なかなか友達ができない。生殖に関する話と女性たちの強い欲望が曝け出される環境を怖れた豊は、家を出る決意をする。恵実は、女性たちのお腹に触る時に「小さきものの存在」を感じられない時があることに、幼い頃から罪悪感を感じている。辞めて普通の女の子のように友達と仲良くしたいと思う気持ちと、自分にはこれしかないのではないかという気持ちの間で悩むようになる。伸一は家族の中で存在感を失っていき、家から出ていった。家族はばらばらになり、豊と恵実は自分の家族や子どもがほしいという気持ちを叶えることができないまま、時は過ぎていく。

 「子孫繁栄をどうして人間は願うのでしょうね」

 守口家を訪れた拝み屋が口にするこの言葉は、小説のテーマでもある。長い年月の間に、妊娠や出産に対する社会の意識は大きく変わってきた。だが産みたい、産みたくないという願望の通りに人生を進めることが困難なのは、時代が変わっても同じではないか。それぞれの時代で、多くの女性たちが苦しみ翻弄されてきたのだろう。幼い頃からたくさんの女性たちのお腹に手を触れ続けてきた恵実も、その一人である。

 その切実な思いが、橘の木という存在を通して描かれていく。構成の見事さと読者を引き摺り込む心理描写に、読みながら何度もゾクっとした。

 三作目となるこの小説で三島賞を受賞した中西智佐乃氏だが、過去作品ではまた別のやり方で、社会から置き去りにされた人々の思いを掬いとるように書いている。今後の活躍から目を離したくない作家だ。

 (高頭佐和子)

« 前の記事高頭佐和子TOPバックナンバー