【今週はこれを読め! エンタメ編】「噂」という炎に巻き込まれた人々〜辻村深月『ファイア・ドーム』

文=高頭佐和子

  • ファイア・ドーム (上)
  • 『ファイア・ドーム (上)』
    辻村 深月
    小学館
    2,090円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HMV&BOOKS
  • ファイア・ドーム (下)
  • 『ファイア・ドーム (下)』
    辻村 深月
    小学館
    2,090円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HMV&BOOKS

 読み終えてから何年か経ってその本を手にした時、当時自分がどんな環境にいたのかとか、誰とどんな感想を交わしたのかとか、社会でどんなことが起こっていたのかとか、記憶が溢れ出してくるような小説がある。心に残る素晴らしい小説はたくさんあるけれど、そんなふうに一緒に生きていたような気持ちがする小説に出会うことは、それほど多くはない。辻村深月氏の3年ぶりの新刊であるこの小説は、私にとって、そして多くの人にとっても、そういう小説になるのではないか。

 舞台は、北陸地方の都市である。そこで起きた二つの誘拐事件が物語の中心にある。最初の事件は、25年前の「デパート受付嬢誘拐殺人事件」だ。新聞記者を名乗る人物から取材をしたいと呼び出された22歳の女性が、誘拐され殺害された。ほどなく犯人は逮捕されて無期懲役となったが、市内では事件と被害者にまつわるさまざまなデマが流れた。同じ時期に起きたある事故と被害者との関係も噂された。大人も子どももその話に夢中になり、何の落ち度もない被害者の家族は、地域で孤立した。

 その事件のことを何も知らなかった東京出身の小学校教員・佐村美冬は、ある出来事をきっかけに、受け持ちの児童である戌井光汰朗の家族が、他の保護者たちから距離をおかれていることに気づく。過去の事件と何か関係があるようなのだが、詳しいことは信頼できる教員も教えてくれなかった。光汰朗が誘拐事件の被害者の甥であることを教えてくれたのは、恋人の新聞記者・桜木透真だ。この土地で生まれ育った透真は、小学生の時に起きた事件のことをよく覚えていた。被害者家族を苦しめた噂を自分も信じて楽しんですらいたことに、今も心を痛めていた。ある日、光汰朗が行方不明になる。二度も事件に巻き込まれた光汰朗の家族にも、担任教師である美冬にも、憶測や中傷が火の粉のように降りかかってくる。

 今までに見聞きしたさまざまな事件を、思い浮かべずに読むことはできなかった。ネットの中傷や、何かを決めつけるような報道には嫌な気持ちになる方だと自分では思っている。だが、出どころのわからない情報やもっともらしい「考察」に心を動かされたことが、ないわけではない。真実よりも、自分が納得できる物語を人は好む。事件の噂話を無責任に消費した人々の中に、きっと私もいたのだ。離れた場所で燃えているはずだった炎が、自分の方に燃え広がってくるまで、傷つけられた人々の思いに気づかない。いや、気づかないふりをしているだけなのかもしれない。

 そう考えずにいられないのは、さまざまな立場の登場人物ひとりひとりの人生や、噂に翻弄される街の空気が、小説の中からリアルに浮かび上がってくるからだ。小説の中に描かれない長い時間も、口にできない感情も、それぞれの登場人物の言動から感じることができる。上下本の厚みの何倍ものボリュームが、この小説にはある。

 物語は全く予想しない方向へと進んでいくのだが、ここから先はぜひご自身で確かめていただきたい。途中でやめるとかは絶対無理だと思う。上下セットで入手することを、強くオススメします!

(高頭佐和子)

« 前の記事高頭佐和子TOPバックナンバー