第229回:蛭田亜紗子さん

作家の読書道 第229回:蛭田亜紗子さん

2008年に第7回「女による女のためのR‐18文学賞」大賞を受賞、10年に『自縄自縛の私』(受賞作「自縄自縛の二乗」を改題)を刊行してデビューした蛭田亜紗子さん。現代人の日常を描く一方で、『凜』では大正期、開拓時代の北海道を舞台に過酷な環境を生きる男女を描き、最新作『共謀小説家』では明治期に小説執筆にのめりこんだある夫婦の話を描くなど、幅広い作風で活躍中。では蛭田さんが親しんできた作品とは? リモートでたっぷりおうかがいしました。

その5「北海道で会社員生活&作家デビュー」 (5/7)

  • 狂人日記 (講談社文芸文庫)
  • 『狂人日記 (講談社文芸文庫)』
    色川 武大,佐伯 一麦
    講談社
    1,540円(税込)
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  • 濁った激流にかかる橋 (講談社文芸文庫)
  • 『濁った激流にかかる橋 (講談社文芸文庫)』
    伊井直行
    講談社
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  • 嵐が丘 (新潮文庫)
  • 『嵐が丘 (新潮文庫)』
    エミリー・ブロンテ,友季子, 鴻巣
    新潮社
    990円(税込)
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――北海道に戻るとは決めていたのですか。

蛭田:東京で暮らすのは大学の時だけ、というのが親との約束でした。でも一応、東京でも就職活動はしたんです。氷河期だったので選考でまったく先に進めず、結局親のコネで北海道の広告代理店に就職しました。でも当時は働き方改革の影も形もない頃で、日付が変わる頃に帰るような毎日で。テレビもまったく見る時間がないので、広告代理店で働いているのに何が流行っているのか全然知らなかったんですよ。それで5年くらいで転職しました。
 最初の会社にいる頃に印象に残っている読書体験がありました。東京にいた頃に付き合いはじめた人と遠距離恋愛をしていたので、ゴールデンウィークに東京に遊びに行ったんです。一緒に電車に乗って出掛けて、知らない駅で降りてみようという話になって、蘆花公園駅で「公園があるんだろう」といって下りて、ポカポカ陽気のなか散歩して。公園を抜けたところに小さい図書館があったので入ってみたら床に座って本が読めるスペースがあったんですが、私はなぜかそこで色川武大の『狂人日記』を読み始めたんです。すっかり読み切って気づいたら夕方でした。滅多に会えないのにそんな時間の使い方をしたのはもったいなかったという(笑)。

――それくらい面白かったんでしょうか。

蛭田:それが、数年後に読み返したらしっくりこなくて。当時なぜ読めたんだろう......。

――その後、会社員生活の頃はあまり読書はできなかったのでは。

蛭田:あまり読めませんでしたが、一時期好きだったのは伊井直行さん。一番好きなのは『濁った激流にかかる橋』ですが、こっそり裸で出歩くことがやめられないサラリーマンの話があるんです。「ヌード・マン」とか「ヌード・マン・ウォーキング」など、同じ話で長さが違うものが何種類かあるんですけれど。あとから読み返した時、自分がデビュー作を書いたのは、そこからヒントを得た部分もあるのかなと思いました。

――蛭田さんのデビュー作「自縄自縛の私」は、密かに自分を縛って日常生活を送る女性の話ですよね。本格的に小説を書き始めたのはいつだったのですか。

蛭田:1社目を辞めて、無職の期間が半年間あったんです。その時に「なにをしようかな」と考えて「小説を書こう」と思って。それで短篇を3つ書いたんです。短篇で応募できるところを探して、ひとつは別の賞に送り、あとの2つは「女による女のためのR-18文学賞」に送り、再就職したくらいの頃にそのうちの一個が受賞しました。

――え、その時書いたのが「自縄自縛の私」で、いきなり大賞受賞だったんですか。あれはすぐスラスラ書けたんですか。

蛭田:そうですね。ビギナーズラックだったんです。R-18はみずみずしい感性を描く人が多い印象だったので、そうじゃないタイプのものが面白いかなと思って書きました。
 でもそこから単行本を出すまでに2年かかりました。1本書いて送っては数か月返事を待って「駄目だ」と言われたりして。小説を書く経験を積んでいなかったので1からのスタートでした。今も手探りですけれど。

――再就職されていたわけですよね。仕事との両立は大丈夫だったのですか。

蛭田:2社目は数人しかいない小さな会社だったんですが、あまり合わなくて。長くはいなかったんです。

――プロとしてデビューしてから、作家仲間ができたことは大きかったのでは。東日本大震災の際、R-18出身の作家さんたちでチャリティーを目的としたアンソロジー『文芸あねもね』を出されたりしていましたね。

蛭田:R-18出身の作家さんと繋がりができたのは大きかったです。一時期は一緒に旅行したりしていました。別に創作の話はしませんでしたけれど、なかなか本を出せず出版社からもなしのつぶてだった頃は励みになりましたし、他の人たちの本も読むようになりました。
 それと、在籍時期は重なっていないんですけれど、最初にいた会社に藤堂志津子さんも勤めていらしたんです。その繫がりもあって、藤堂さんが札幌近辺の女性作家さんに声をかけて食事会を開いてくださったことがありました。桜木紫乃さん、朝倉かすみさん、乾ルカさん、まさきとしかさん...。

――なるほど。桜木さんは「知っている土地しか書けない」と言っていつも北海道を舞台にした小説を書かれていますが、蛭田さんはいかがですか。

蛭田:ああ、北海道とは季節感が全然違うので、他の地域を書く時は何月に何が咲いて、いつ梅雨に入るかといったことは調べます。逆に北海道の話を私の感覚で書くと他の地域の読者に通じるだろうかと不安になります。
 そういえば、デビューしてから、海外の長篇の古典をいろいろ読んだんです。海外文学は短篇を読むことが多かったので、ちゃんと長篇も読まなきゃと思って。それですごく好きだったのは『嵐が丘』です。あの荒れ地の空気感が、北海道の道北に向かう海沿いのオロロンラインという道路に通じるものを感じたんです。実際は原生花園などもあるので『嵐が丘』とは全然違うんですけれど、あそこに書かれている土地の持つ力が、何か自分が知っているもののような気がします。

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