
作家の読書道 第249回:櫻木みわさん
2018年に作品集『うつくしい繭』でデビューし、第2作『コークスが燃えている』、第3作『カサンドラのティータイム』で話題を集める櫻木みわさん。大学卒業後はタイに移住、その後東ティモールに滞在など海外経験を重ね、その間も作家を志していた櫻木さんの読書遍歴は? 帰国して作家デビューに至るまでのお話なども。リモートでたっぷりうかがいました。
その5「タイに惹かれて」 (5/7)
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- 『旅をする裸の眼 (講談社文庫)』
- 多和田葉子
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――大学時代、インドに行ったのですか。
櫻木:はい。夏休みに1か月くらい旅しました。インドは『深夜特急』に出てきたカルカッタとバラナシに行きました。一人旅でしたが、大学の友達がインドで映画を撮りたいと言っていて、現地で合流してちょっと手伝ったりしました。
――どういうルートで行ったのですか。『深夜特急』と同じルートとか?
櫻木:同じルートではなく、一番安い航空券だったタイのバンコク経由のタイ航空の飛行機をとりました。バイト代を貯めて、初めて一人で行った旅行だから憶えているんですけれど、10万円は切っていました。9万幾らかでした。
それで、トランジットでバンコクで何泊かしたんです。タイについては何も調べずに行ったので、こんな国なんだと思って。その時にすごくタイに惹かれたんですよね。インドも楽しかったんですけれど、タイが好きになった旅でした。
――それがはじめての海外旅行だったのですか。
櫻木:いえ、中学生の時に語学研修などでアメリカやカナダには行っていました。高校生の時は、友達がポッキーのCMの懸賞で旅行を当てて、イギリス返還前の香港に一緒に連れて行ってもらったことがありました。その頃、ポッキー四姉妹のCMがあったんですよね。ポッキーを買って応募すると四姉妹と反町隆史さんと香港豪華旅行が当たるというのがあって、友達が反町さんが大好きで応募したら当たったんです(笑)。日本経済がギリギリ豊かな時代でした。なので海外旅行の経験はありましたが、一人旅はインド旅行がはじめてでした。
――学生時代のうちに、タイにはまた行ったのですか。
櫻木:タイにも行きましたし、タイを拠点にしてカンボジアに行ったりラオスに行ったりもしました。
――旅に本は持って行っていましたか。
櫻木:はい。それでいうと、学生時代に知り合った南部タイ出身の友達が結婚式のために車で帰省するというので、結婚式を見たいから連れていってほしいとお願いしたことがあったんです。その時に持っていったのが、モームの『月と六ペンス』新潮文庫の旧版で中野好夫さん訳でした。ずっと日本人にも会わないし日本語を話さない旅をしている時に『月と六ペンス』を読んでいたら、あれはタヒチに移り住んだ画家のゴーギャンがモデルの話ですが、生まれる場所を間違える人もいる、と書かれている箇所があって。自分の知らない、本来生まれるはずだった場所への憧れを胸に秘めて暮らす人がいて、そういう人は自分の場所を求めて世界中をあちこちを行き、偶然その場所にたどり着くこともある、というようなことが書かれていて、それを読んだ時、私にとってその場所はタイかもしれないって思いました。
――実際、卒業後、タイに移住されていますよね。どういう経緯だったのでしょう。
櫻木:学生時代、『バンコク発「日本人、求ム」』というタイで働いている日本人へのインタビュー集を読んで、自分もタイで働けるかもと思ったんですよね。これも学生時代の話ですが、空港で高野秀行さんの『極楽タイ暮らし』を軽い気持ちで買って飛行機の中で読んだら、高野さんがチェンマイで日本語学校の先生として働いていた頃の体験が書かれてあって、軽薄そうなタイトルだけれど文章が素晴らしくて。この2冊の本から、タイで働くという選択肢があるということを学んでいたんですよね。
今まですっかり忘れていたんですけれど、就活は講談社しか受けていなくて、二次面接で「一個しか受けてないなんて落ちたらどうするの」と言われて「タイに行きます」って言ったんです。そんなこと言う人採りたくないよなと思うし(笑)、実際そこで落ちたんですけれど。なので、就活しながらもタイに行こうって思ってたんですね、きっと。今思い出しました。
そこから1年間バイトしてお金を貯め、タイに行きました。タイ語学校に通いながら、日本人の実業家の家で、4人兄弟の国語専門の家庭教師に雇われて週5で通っていました。その子たちはインターナショナルスクールに通っているので、漢字の勉強に興味ないんですよ。学校の課題と関連するなら学ぼうとするんだろうけれど、インター行っているので漢字を憶える必要がないっていう。あまりにやる気がないので、筒井康隆さんの『七瀬ふたたび』の話をしたり、自分が子供の時好きだった『クレヨン王国の十二か月』の読み聞かせをしたりするところから始めたら、その子たちもだんだん本が好きになって勉強するようになりました。筒井さんと、福永令三さんにはお世話になりました(笑)。
その後、老舗の日本語情報誌のエッセイコンテストに応募したら大賞をもらい、それでバンコクの日本語メディアの人たちと知り合って、仕事をもらうようになりました。
――実際に長期住んでみて、やっぱりタイは良かったですか。
櫻木:良かったです。その頃にできたタイ人の友達とは今でも仲がよいし、タイで出会った日本人や他国の友人たちとも、定期的に会っています。『コークスが燃えている』に出てくる、主人公の親友の有里子さんは、タイで出会った友達をモデルにしています。フランス人の元夫ともタイで出会いました。タイから与えてもらったものはすごくたくさんあります。
――どのくらいの期間バンコクにいらしたんですか。
櫻木:働いていたのは3年間です。その後は別の場所に住んで、時々立ち寄っては断続的に仕事をしたりしていました。やはりバンコクは中継地なので、なにかと行くことが多いんです。
――海外暮らしの間、日本語の読書はできていたのでしょうか。
櫻木:その頃はまだ電子書籍もないので、すごく日本語の活字に飢えていました。誰かが雑誌や新聞をくれると、もう宝物のように喜んで読んでいました。それと、日系の書店に行ったり、たまに帰国した際に本を買って、何回も繰り返して読んでいました。
海外にいる時に本当に好きで読んでいたのは、越境している作家が多かったですね。多和田葉子さん、須賀敦子さん、米原万里さんとか。海外の作家でも、学生時代に読んで好きだったアゴタ・クリストフやクンデラも越境している作家なので、もとからそうした作家が好きだったのかもしれませんが。
――多和田葉子さんはドイツ在住、須賀敦子さんは長年イタリアで暮らした方だし、米原万里さんは少女時代にプラハのソビエト学校でロシア語を学んだ方ですよね。アゴタ・クリストフはハンガリーからフランスに亡命してフランス語で『悪童日記』を書いているし、クンデラはチェコからフランスに亡命している。
櫻木:多和田さんは『容疑者の夜行列車』がすごく好きで繰り返し読んでいます。あの小説にはインドも出てきますよね。それと、『旅をする裸の眼』。『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』という随筆も、何度も読んでいます。
須賀さんのエッセイは『ミラノ 霧の風景』や『ヴェネツィアの宿』など、ひととおり読んだと思います。静かで硬質な文章と、市井の人に対する眼差しに惹かれました。須賀さんが翻訳している、アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは...』も、とても好きです。
米原さんは、小説の『オリガ・モリソヴナの反語法』を惹き込まれて読みました。
――バンコクのあと、生活拠点はどのように変わったのでしょうか。プロフィールには〈タイ、東ティモール、フランス滞在などを経て〉とありますよね。
櫻木:タイに3年間住んで、その後に東ティモールに行きました。タイで出会ったフランス人から、東ティモールに赴任するので一緒に行ってくださいと言われたんです。その頃の私は朝から晩まで日本語情報誌の仕事をしていて、そろそろ小説を書きたいのに全然時間がなくて。そのことをフランス人の彼も知っていて、「自分と来たら小説に専念できるよ」って。きっといい小説を書けるよと言われて、一緒に行くことにしました。
――東ティモールが独立した後ですよね。
櫻木:独立して10年くらいのタイミングだったと思います。
――言語はどうされていたのかなと。
櫻木:まさにそれが東ティモールで孤独だった理由でした。タイではタイ語学校に通いましたし、もちろんタイにも方言があるんですけれど、一応みんなとタイ語で話せたし、外国人とは英語でコミュニケーションできたんです。でも当時の東ティモールは国内でも言語が断絶していました。昔インドネシアに占領されていた時代の人はインドネシア語を話し、独立後、若い世代は学校でポルトガル語を公用語として習っている。一応、共通の言語としてテトゥン語という言葉があるんですが、それは首都でしか通用しなくて、地方にいくとそれぞれまったく違う言葉で喋っている。国民も言語で分裂していた時期で、英語が分かる人も少なくて、地元の人となかなかコミュニケーションがとれないことが自分にとってすごくストレスでした。この国のことを知りたいのに、自分が分厚いガラスに隔てられている感じでした。パートナーは外務省で働いていて、インドネシア語が堪能で地元の人ともコミュニケーションがとれていたので、すごく孤独を感じました。
――読書はいかがでしたか。
櫻木:読書は続けていました。彼も本が好きで、村上春樹を読んでいたりして。私もフランスの作家ならデュラスとかが好きだったし、彼と本の話ができたのはよかったです。まわりはウェルベックを好きな人が多かったんですけど、彼は好きではなく、「ウェルベックとディナーすることになったら、どんなに素晴らしいワインがあっても行かない」と言ってて、そんな物言いも面白かった。フランス人たちと交流したことで、彼らとの話題に上がることがあった谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』やロラン・バルトの『表象の帝国』を読み直しました。デュラスもあらためて読みたくなって、『戦争ノート』を探して買いました。
ただ、本当に日本語を使わなくなったことでも孤独を感じていたので、NHKワールドをよく見ていたんです。当時、BS NHKで本を紹介する番組をやっていたんですよね。中江有里さんが司会をされていて...。
――「週刊ブックレビュー」ですね。あれはいい番組でした。
櫻木:それです。あの番組が私の心のよすがでした。そこで紹介された面白そうな本はメモしていました。日本に帰ったら買おう、って。
東ティモールには4年くらいいましたが、その間も、時々タイに行って仕事をしたり、日本に帰ったりもしていました。
気候も風土も違う場所で繰り返し読んだ本は、今でも記憶に残っていますね。大江健三郎さんの『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』や『「自分の木」の下で』がそうです。また大江さんの話になりますが、尾崎真理子さんがインタビューをされた『大江健三郎 作家自身を語る』は、表紙の大江さんの写真、尾崎さんの質問、大江さんの語り口、どれもが好きで、長い旅に行くときは持って行ってしまう一冊です。
その後、彼が次はフランスで働くことになりそうだというので、フランスに渡って準備をしていたら、東京に赴任になったので帰国しました。それが30代前半の頃です。彼に今度いつフランスに赴任になるか分からないので今のうちにフランス語を勉強しておいてと言われ、フランス語の学校に通っていました。
――語学の勉強は得意なほうですか。
櫻木:いえいえ。本当に語学の才能のある方っていらっしゃるじゃないですか。自分は全然です。
でも、タイ語学校に行った時はすごく楽しかったです。タイ語って、お腹が痛いっていう言葉が6種類くらいあったりして、それが面白かったし。日本語に対するいろんな発見もありました。日タイの通訳をしている友達に「日本語って自然に対する言葉がたくさんあってすごいね」って言われたりしましたね。「木漏れ日って言葉はタイ語にはないんだよ」とか。
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