第256回: 王谷晶さん

作家の読書道 第256回: 王谷晶さん

ノベライズやキャラクター文芸を発表した後、2018年に刊行した短篇集『完璧じゃない、あたしたち』で注目を集め、2020年刊行の『ババヤガの夜』は日本推理作家協会賞の長編部門の候補にも選出された王谷晶さん。本があふれる家で育ち、学校に行かずに読書にふけっていた王谷さんに影響を受けた作品とは? 20代のご本人いわくの「バカの季節」、作家デビューの経緯などのについてもおうかがいしました。

その4「20代は「バカの季節」」 (4/7)

――高校卒業後に上京されたんですよね。ビデオ店でアルバイトしていたのも上京されてからですよね。

王谷:一応東京のデザイン系の専門学校に進学したんですけれど、名前を書けば入れるような学校でした。とにかく家から出られればいいと思って入学したので、そのまま授業にも行かなくなって、ひたすらバイトをしていました。ビデオ屋とか寿司屋とかスナックとか...。

――本はどのように探していたのですか。

王谷:お金がなかったので、神田の古本屋さんばっかり行きました。当時巣鴨のあたりに住んでいたんですが、5キロくらい歩けば水道橋なので、歩いて行っていました。映画館も観たい作品があったら頑張って劇場に歩いて行っていたんですけれど。

――片道5キロ!

王谷:その頃からだんだん酒の味をおぼえはじめ、生活が酒に浸食される時期が始まるんです。その影響は18、19歳くらいから30代半ばまで続きました。
上京はしたんですけれど、4年くらいで1回実家に戻っているんです。酒とか鬱とかいろいろあって、もう駄目になっちゃって、実家で21歳から28歳くらいの間、鬱の闘病をしていた、みたいな状態でした。
その間、焼酎の「大五郎」の4リットルのペットボトル週1本あけていました。酒と一緒に鬱の処方薬をガバガバ飲んでたんです。自分では「バカの季節」って言っています。とても愚かしい季節でした。それまでは比較的中肉中背だったのですが、ご飯もすごく食べていたので一気に45キロぐらい太りました。やばいなとは思ってたんですよね。まだ20代なのに、自分はこのまま終わるのかって。
でもその時期の記憶はすごく曖昧です。そんな状態だから本はほとんど読めなかったです。やはり田舎に戻ってきちゃったことがすごくショックで、そこから逃れるためにビデオを借りてずっと香港映画を観ていました。だからその頃の記憶にあるのは地元の町並みじゃなくて、香港の町並みです。1回も香港に行ったことないんですけれど。
後半はフィクションを摂取するのが駄目になって、映像でもドキュメンタリーみたいなものばかり観るようになりました。抗鬱剤や鎮痛剤を飲むと、ショックに対するアブソーバーになるのか、えげつないものも結構フラットに見られたんですよね。これはチャンスだと思って...って、なにがチャンスだってことですけれど、ネットのグロ動画とか、実録的な殺人ものとか、昭和事件史みたいものも見ました。事故を起こした飛行機のブラックボックスを聞いたりとか。今そうしたものを見続けたら自分も「うっ」となっちゃうと思うんですけれど、あの時期はそれがよかったんです。

――その状態から、どのように抜け出したのでしょう。

王谷:ある時、春日武彦さんと平山夢明さんの『「狂い」の構造』という、お二人の最初の対談本を読んだんです。そのなかに、平山さんがスランプになった時期の話が書かれてあったんです。スランプでどうしようもなくて春日さんのところに行って、「スランプみたいなのを治す薬はないんですか」って言ったら、春日さんは「君みたいな人の部屋はたぶんすごく散らかっているだろうから、まずは掃除をしなさい」みたいなことを言って、薬をくれなかった。それで平山さんが、「まあやってみるか」という感じで少し掃除を始めたら、書けるようになった、というエピソードです。その本には、「面倒くさい」と言いはじめると全部くるっていく、みたいな話もありました。
以前親がはまっていたので家にスタンダードな自己啓発本がたくさんあって、それを読んでいたことに加えてその平山さんのエピソードを読んでハッとして、実家の台所の床とかを磨き始めたんです。掃除ってやったらやっただけ結果が出ますよね。それで、ちょっとずつ調子が良くなっていきました。気づいたら27歳とかになっていて、なんか人生だいぶ間が空いちゃったけど、まだやり直せるかなと思って。近所に新しくできた大きなスーパーがあって、そこのお惣菜屋さんがバイトを募集していたので、じゃあ働こう、と。1年くらい働いてちょっとお金を溜めて、28歳でまた家を出ました。家出ではないけれど、トランクひとつだけで、ほぼ家出に近いみたいな感じでした。28歳でやることかっていう話ですが、今やらないともうやれないなと思いました。

――平山夢明さんが王谷さんを救ったといえますね。

王谷:そうなんです。一度お会いしたことがあって、ご本人はそういうことされるの嫌だろうからその場ではしなかったけれど、心の中で手を合わせました(笑)。

――そしてまた東京に。

王谷:はい。仕事も何も決めないで上京してしまったので、シェアハウスに入って、携帯であちこち日雇いの登録をして働いていました。
その頃は二次創作をやってました。とあるコンテンツの二次創作をめちゃめちゃ書いていましたが、作家になるための行動はまったくしていませんでした。

――ネットに映画評みたいなものを書いたりとかは?

王谷:今はもう全部消しちゃいましたけれど、実家でウゴウゴしていた時期もテキストサイトはやっていました。でも、酒量が増えていくとだんだん書くことが支離滅裂になっていくんですよね。当時ネット上で知り合った人がありがたいことに今もまだ繫がりがあるんですが、あの頃私がどんどん支離滅裂になっていく様子を見て、たくさんの人が「ああ、この人駄目なんだな」と思っていたようです。

――それにしても、お酒ってそんなに毎日大量に飲めるものですか。途中で気持ち悪くなったり、二日酔いの苦しみとかはなかったんでしょうか。それに、よく体を壊さなかったな、と。

王谷:身体は結構丈夫みたいです。あんなに無茶をしたのに、いろんなとこの数値もそんなに悪くなくて。酒に関しては、親父は下戸で母親は普通なんですが、祖母がザルを通り越して輪っかみたいな体質で、それを継いでいるみたいです。強いとそのぶん飲んじゃうから、そういうことになってしまう。

――そういえば、前にお酒が強かったからバイト先で助かった、みたいなことをおっしゃっていましたね。

王谷:スナックで働いていた時とか、ライターを始めた時なんかに、変なおっさんが私を酔わせて潰そうとしたことが何回かあったんです。潰し返しました。たまたま肝臓が強かったから助かっただけです。とんでもない話です。

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