
作家の読書道 第276回:松浦理英子さん
大学在学中に「葬儀の日」で文學界新人賞を受賞しデビュー、寡作ながらも『親指Pの修業時代』で女流文学賞、『犬身』で読売文学賞、『最愛の子ども』で泉鏡花文学賞、『ヒカリ文集』で野間文芸賞を受賞など、毎作品が高く評価されている松浦理英子さん。深い洞察力で独自の作品世界を生み出す作家は、どんな作品を読み、なにを感じてきたのか。読書遍歴や自作についての思いなどおうかがいしました。
その7「執筆ペースと読書、自作について」 (7/7)
――小説執筆に関しては、1987年に出された3冊目の『ナチュラル・ウーマン』は話題になりましたよね。そこから環境が変わったのでしょうか。
松浦:『ナチュラル・ウーマン』を中上健次さんが褒めてくださったことで、付き合いの途絶えていた編集者が「うちでも書きませんか」と言って来たというようなことはありました。ただ、業界での評価は全然高くなかったです。
――中上健次さんが褒めてくださったというのは。
松浦:その年に第一回三島由紀夫文学賞がありまして、この本は選考対象内の期間より少し前の出版だったんですけれども、中上さんが選考委員の特別推薦として候補にしてくださったんです。選考会は中上さんだけが〇をつけて、他の選考委員は全員×だという結果に終わりまして。中上さんはそれが非常に不満だったようで、「怨念のために記す」といって、そのことを選評に書かれていました。
――『ナチュラル・ウーマン』は女性同士の恋愛や別れを描いた作品です。これは、今までと違うことを書こうと意識されて取り組んだものだったのですか。
松浦:私はあまり社会性がないので、これを書いたら人にどう思われるかをすごく気にするほうではないんです。それでも社会状況からして、書くのにためらいを全く感じないわけではなかったんですけど。まあどうせ評価されていないんだから、思い切った形で書いてみようとして書いたのが、あの小説です。
――そして、6年後の1993年に刊行された『親指Pの修業時代』も大変な評判になります。
松浦:『ナチュラル・ウーマン』は三つの連作短編ですよね。それを最初に書かせてくださったのが河出書房新社の「文藝」だったので、次に書く作品も「文藝」でと思っていたんです。けれど遅筆なのですごく待たせて業を煮やされてしまいました。それでもやっと「文藝」に『親指Pの修業時代』を連載して本にすることができて、少し売れたので、ようやく業界に一定の認知を得たという感じです。
――この作品では、足の親指がペニスになった女性の数奇な人生が描かれますよね。あの着想はどこにあったのですか。
松浦:私自身が、足の親指がペニスになる夢を見たんです。普通に両性具有になるとか、普通のしかるべき場所にそれができるとかよりも面白いことに思えました。それで、そのまま夢に出た設定を使って、かねがね性や男女関係について抱いていた疑問や批判を書くことで、大きな小説になるんじゃないかと思ったわけですね。
――大きな小説になりましたよね。女流文学賞も受賞されましたし。その後また執筆期間があいて、小説家が家賃替わりに書く短篇とそれを読む家主のコメントが交錯する『裏ヴァージョン』を発表するのが2000年、犬に姿を変えた女性が思いをよせてきた女性に飼われる『犬身』を刊行されるのが2007年です。読者としては毎回6~7年も待たされるのですが、そんなに間があくのはどうしてといいますか...。
松浦:私の脳の特性によるんじゃないですかね。脳の体力がなくて、非常に集中力が弱く、すぐに疲れる。なので一気呵成に書くという経験はないですね。純文学の作家に話を聞くと1日8枚くらい書いている人が多いんですけれど、私はそんなに書けないです。『親指Pの修業時代』の頃は1日10枚くらい書けましたけれど、30代の頃にはもう、だいたい1日4枚くらいになっていたと思います。もし1日8枚書いたら翌日疲れ果てて、結局能率が悪くなります。
――そういう時って、一日中パソコンの前に座っているんですか。
松浦:その時々によりますね。これは駄目だと思ったらパソコンから離れます。頭がだるくなるというか、筋肉痛が起きたような感じになっちゃうんです。
私はだいたい一日ひとつの用事をすると、その日が使い物にならなくなります。30代の頃は超ロングスリーパーで、1日10時間から12時間くらい寝ていたんです。だから使える時間も多くなかった。しかも夕方起きていたので、銀行とか郵便局に行こうと思うと早起きしないといけなくて。
――本を読む時間はあったのですか。
松浦:35歳をすぎると本を読む集中力も落ちますね。面白い面白くないに関係なく、疲れるので読書量は減りました。読むのも楽しみではなく、やっぱり勉強のための本が多くなりましたし。
――勉強というのは。
松浦:みなさんどういう志、どういう方法で書いているのかなっていう。やはり人の作品を読んでいないと独りよがりになってしまうという意識があるので、それはもう、頑張っていくらかでも読まなければと思っています。
――同時代の人が書いたものを読むことが多いですか。
松浦:同時代でいうと、この間まで新人文学賞の選考委員をやっていて、新しい人たちの才能に触れるのは楽しかったですね。「文学はもう終わり」みたいなことを言う人もいるようですけれど、やっぱり次々と才能のある作家は出てきているし、そんなに簡単に終わらないんじゃないかという思いを強くしています。
――ジュネと足穂は別格として、新たに好きになった作家はいませんか。
松浦:文学少女の頃は女性の作家にあまり惹かれることはなかったんですけれど、今は女性の作家も大好きです。
――具体的な作家名や作品名をおうかがいしてもよいですか。
松浦:たとえば桐野夏生さん。桐野さんはいっぱい書いていらっしゃるからどうしよう...。『メタボラ』を挙げておこうかな。不良ばかり集められた集団塾に入っていた主人公の一人がそこを脱走して、もう一人の主人公である記憶喪失の男性と出会うという。ご本人も認めていらっしゃったんですけれど、「真夜中のカーボーイ」っぽいんです。
それと、アメリカにメアリー・ゲイツキルという作家がいて、『悪いこと』という短篇集を読んだ時は、ちょっと自分と近い魂を感じました。
――どういうところに近しさを感じたのでしょう。
松浦:孤独を知っているという言い方もできるし、魂のあり方がマイナーといいますか。親密さを求めても、うまくいかず、孤独のままにいるところですかね。特別な親愛感を寄せている作家です。好きで尊敬している日本の作家はたくさんいるんですけれど、魂の近さを感じる人はいないんです。
――読書記録はつけていますか。
松浦:なにかの時に便利なので、一応、日付とタイトルと作家名と出版社くらいはつけています。感想までは書いていません。
――最近は、読む本はどうやって探していますか。書評を見るのか書店の棚を見るのか...。
松浦:書店の棚を見るのが好きだったんですけれど、よく行く町から大型書店がなくなってしまったので大変困っているんです。
――その後、『犬身』から5年後の2012年に『奇貨』、その5年後の2017年に『最愛の子ども』、さらに5年後の2022年に『ヒカリ文集』を刊行されています。
松浦:刊行の間隔が狭まっていると一部で話題になっているようです(笑)。経済的な事情もあって急いで書いています。
――『犬身』で読売文学賞、『最愛の子ども』で泉鏡花文学賞、『ヒカリ文集』で野間文芸賞と、受賞が続いていますね。改めて、おめでとうございます。
松浦:ありがとうございます。
――松浦さんの作品は初期の頃からセクシュアリティやジェンダーをひとつのテーマにしている印象もありますが、それだけではなく、いろんな要素を感じます。ご自身ではどう意識されているのかなと。
松浦:私は人間関係の多様性と可能性を書こうとしていて、その中でセクシュアリティやジェンダーが出てくるに過ぎないんです。ジェンダーそのものは私にとって非常に狭いし、ジェンダーを書こうという意識で小説を書いたことはないと思います。
――最新刊の『ヒカリ文集』は、かつての学生劇団の仲間たちが、当時劇団員だったヒカリという女性について書いた文章を集めたもの、という形式です。他の作品でも松浦さんはいつも、誰が何について語っているのか明確にされていますよね。
松浦:そうですね。例外もありますけれど、『親指Pの修業時代』の頃から、これは誰がどういう事情で書いている小説かはっきりと定めて書いていると思います。それは小説で自明とされている語り方への抵抗でもありますし、話し言葉の優位性に対する抵抗でもあります。やはり自分が書き言葉によって形成されてきた人間だという意識が強くあるんですね。話すのが苦手ですし。言葉というと多くの人が話し言葉の優位性を言うんですけれど、自分の書く小説においては、誰が誰に向ってどういう事情で書いているのかはっきりさせたうえで、すべては書き言葉である、という形で書くことにこだわりがあります。すべての作品でそれをやっているかどうかは別として。
――たとえば『最愛の子ども』は高校が舞台で、「わたしたち」という人称が使われていますが、書き手が誰なのか松浦さんの中には明確にあるのですか。
松浦:あれは裏設定としては、登場人物の一人で、文章を書くことが得意な草森恵文が書いている文章です。別に読者がそこまで考える必要はなく、作者だけが知っていればいいことですけれど。
――なるほど。では最後に、刊行予定などを教えてください。
松浦:『ヒカリ文集』の文庫が今月出たばかりです。次の刊行に関しては、早ければ年内に文芸誌に発表できるかもしれないんですけど、嘘になってもよくないので、あくまで可能性があると言うだけにとどめておきたいです。
(了)