その1「感覚に強く訴えかけてきた漫画」 (1/7)
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- 『クラシックゴールド絵本 ミッキーの ジャックと まめの き (ディズニーゴールド絵本)』
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――いちばん古い読書の記憶を教えてください。
松浦:幼稚園に上がるか上がらないかくらいの頃から、親が買ってきたディズニーの絵本を眺めていたことは憶えています。『しらゆきひめ』とか。『ジャックと豆の木』もディズニーの絵本だった気がします。その頃、まだマウスという英語を知らなかったので、ミッキーマウスはクマだと信じていたんですよ(笑)。親からネズミだと聞いて残念な気がしました。
小学校に上がる頃から漫画もよく読んでいました。いちばん好きだったのは手塚治虫の『鉄腕アトム』です。たしか光文社から毎月1冊『鉄腕アトム』のムックのような本が出ていたんですね。それを親にねだって買ってもらうのが楽しみでした。
――鉄腕アトムのどこがお好きだったのでしょう。
松浦:可愛いからです。今振り返ると、ペットや恋愛対象の可愛さではなく、可愛らしいヒト形の存在の原型のようなものとして見ていたんだと思います。それに、手塚治虫というのはやはり感性が豊かな人で、子どもながらにこちらが身体感覚で受け止める描写がたくさんあったんですね。たとえば『人工太陽球の巻』では鉄腕アトムが人工太陽球の熱に灼かれて体が溶けるんです。手足がなくなって、頭と胴体だけになるんですけれども、それがゴムのような、練った小麦粉のような触感で描かれているんですね。そのゴムのような柔らかそうな質感に惹かれてじっと見つめていました。私の五感は視覚でも嗅覚でもなく触覚が最優位なのですが、『鉄腕アトム』を読んでいた頃からその傾向があったようです。他にもアトムが高い所から落ちて手、足、頭が胴体からはずれてしまうシーンなどもあって、かわいそうなんだけれども、そういう物理的な体の変化の描写は感覚に強く訴えかけるものとしてありました。
アトムが小さくなる巻もありました。ミニアトムが活躍するんですけれども、小さくなっただけでまたこんなに可愛いんだ、と。そういう感覚の喜びを感じながら手塚治虫を読んでいました。今でも、1990年代に出た光文社文庫版の『鉄腕アトム』は全巻持っています。
――読み返したりされているのですか。
松浦:何年かに1回くらい。だから内容をこれだけ憶えているんです。
――松浦さんは愛媛県のご出身ですよね。どういう環境で育ったのですか。
松浦:愛媛県は気候が温暖なことも影響してか、基本的には人々が大人しい印象でした。小学校6年生に上がる時に徳島県に引っ越したら、人々が明るくて元気なことにびっくりした記憶があります。
愛媛県では、授業中に学校の先生が「明日は何の日か知ってるか」というようなことを訊くと、みんなそれが形式的な質問であって本当に尋ねているわけではないと分かっているから、シーンとしていたんですよ。ところが徳島に行ったらみんな口々に答えるので驚きました。どちらの気質にもいいところがあると思います。
――学校の図書室はよく利用しましたか。
松浦:図書室にも行きましたが、教室にある学級文庫をよく利用していました。みんなが要らなくなった本をそこに寄付するので結構たくさんあって、借りて帰って読むこともできました。どういうわけかうちのクラスはみんな読書が好きでした。なにかで騒ぎすぎて先生に「騒いだ罰として放課後残って1時間本を読みなさい」と言われても、みんな「わーい」って喜んで。なんの罰にもなっていませんでした。
――小学生の頃の読書では、どんな本が印象に残っていますか。
松浦:小学校2年生の時に『ジュニア版太平洋戦史 平和編 原子雲わく』を読んでショックを受け、親にねだって広島の原爆資料館に連れていってもらいました。私がアメリカに憧れたことがないのは、この本を読んだのも一因だと思います。
うちは親が古本屋で適当に子ども向けの本を買ってきていたんですが、そのなかに偕成社の子ども向けの「日本文学名作選」があって、芥川龍之介、菊池寛、森鴎外、夏目漱石などを読みました。なんであれ読んでいたい子どもでしたし、子どもの頃って暇だから、とりわけ気に入っているわけでなくても読み返すんですよ。明治大正の日本文学を繰り返し読んでいたせいだと思うんですが、デビューしてから「古い言葉を使っている」と言われました。
――松浦さんは大学生の時にデビューされたから、「若いのにこんな言葉を知っている」と思われたのでしょうね。
松浦:50代60代くらいの人に、「松浦さんは僕らが捨てていった言葉を使っている」と指摘されました。自分としては小学生の頃から身についた語彙が自然に出てくるので使っていただけなんですが。
他にも各社から出ている児童向けの全集はよく読みました。私は外国の作品のほうが好きでした。そのほうがファンタジー要素が強くて、冒険心をくすぐられたんです。キャラクターの魅力も強かった。日本の児童文学は日常的で地味なものが多いという印象を持っていました。
――外国文学で印象に残っているキャラクターは。
松浦: 強烈だったのは『メアリー・ポピンズ』じゃないかな。映画だとジュリー・アンドリュースが演じていて優しげな人なんですけれど、原作だとツンケンした、何を考えているか分からない人なんですよね。よく子どもたちが懐くなと思いましたが、惹かれるところもありました。あの本って、いろいろ変な人が出てくるじゃないですか。船のような形の家に住んで毎日「吾輩は提督である」みたいなことを叫んでいる近所の男性とか。癖のある人が出てくるところも印象に残っています。
他は、だいたい男の子が主人公のものが好きでした。女の子が主人公のものだと、古典的な少女像が描かれているのであまり感情移入できなかったです。『若草物語』のジョーは小説を書いているし、感情移入できた登場人物の一人ではあります。だからといってすごく共鳴したわけでもないです。
――ディズニーの絵本は好きだったけれど、プリンセスストーリーが好きだったわけではないんですね。
松浦:別にお姫様の生活にも憧れないし、好きではなかったですね。『小公子』などを読んでいて、小公子がおもちゃをたくさん買ってもらうエピソードなどには興奮する一方、現実の自分は買ってもらえないので、そんなに子どもに買ってやって甘やかしていいのかという疑問も持っていました。
女の子の主人公が、パーティに行くのに着る服がないといって思い煩っているようなエピソードが大嫌いで、「服なんかどうでもいいでしょ」と思っていました。『赤毛のアン』のアンのことも、髪が赤いことくらいでウジウジウジウジなにを悩んでいるんだ、って。それは作者や登場人物たちが悪いんじゃなくて、私に社会性がなかったから共感できなかったんだと思うんです。今は彼女たちの気持ちが分かるんですけど、やっぱり髪が赤いことくらいで悩まないでほしいとは思います。
赤毛のアンは気性が激しいところがありますよね。そういう性格は好きなんですけど、養ってくれている女性に髪のことを言われて怒って、足を地面に打ち付けて踏み鳴らした、という描写があって、それが異様な行為に思えてそこにも拒否感がありました。でも学校に行ってギルバートにお下げ髪をつかまれて「にんじん」とからかわれた時に、石板で彼の頭をぶん殴ったところには共感できました。私も男の子に嫌なことをされた時に反撃する女の子だったので。
あと、『あしながおじさん』が大嫌いでした。私が読み落としていることがあるんじゃないかと思って20代の頃やここ数年でも読み返したんですけれど、何遍読んでも嫌いなんです。
――なんか分かる気がしますが、嫌いポイントを教えてください。
松浦:まず、足が長いっていうところが。
――え、そこですか。
松浦:今は足の長さの良さが分かりますよ。でも当時は、ことさら足が長いと言われると、化け物みたいに思えてしまって気持ち悪かったんです。お金や物をくれる人を素敵と思う感性も私にはなかった。女性がいい教育を受けられなかった時代に、本人の努力と才能で教育を受けるチャンスを勝ち取ったことを描いた話なんでしょうけれど、子どもの頃はそういうことが分からなかったので、こんな話のどこが素敵なんだろうと思っていました。ロマンスの部分を見ればやっぱり私とは合わないですね。