『暗号のポラリス』中山智幸

●今回の書評担当者●丸善お茶の水店 沢田史郎

 ディスレクシア──。難読症、失読症、識字障害といった日本語訳が示す通り、学習障害の一種で文字が読めない。......と言われても、健常者にはピンとこない。ちょっと成長が遅いだけだという根拠無き楽観と、読めないのは努力が足りないからだという根性論。二通りの言い分だけが、当の本人であるユノを置き去りにしてせめぎ合う。「ハリウッドスターにも難読症の人はいる」と励まされても、《ハリウッドスターにでもならないことにはあなたは無価値だ》と言われているようで、ユノはむしろ自信を失くす。
 そんな彼の、小六の夏休み。早くに両親を亡くして以来、歳の離れた兄と二人きりだった暮らしに、兄の恋人の真理子が加わる。その真理子の思いつきに引きずられるようにして、ユノは真理子と二人、生まれて初めての旅に出る。

 といったところまでが、中山智幸『暗号のポラリス』の前半。物語はここから、ユノと真理子のロードノベルに転じるのだが、恋人の弟であるユノを理解したい、助けたいと真理子が意気込めば意気込む程、自分をどう表現したらいいか分からないユノとの摩擦は増えてゆく。その摩擦熱が、ユノの中に変化をもたらす。
《ってか、感情はどれでも好きに出していいからさ、だから、言ってよ? 黙ってないで、言ってくれないと、わかんないこと多いんだから》
《そうやって知りたがるくせに、ぼくが説明したら、そうじゃないって言うじゃないか。それくらいなら平気だって、そんなのたいした問題じゃないって、ぼくが悪いみたいになるじゃないか》

 言葉が拙いユノに代わって、少々説明を補いたい。
 これまでユノの周りの大人たちにとって〈ディスレクシア〉は克服すべきものであり、その考えを──悪意からではないとは言え──ユノにも押しつけてきた。しかしそれこそが、《ごめんね、ぼく、ばかで》と、ユノに劣等感を植え付けてきたのではないか。
 そんなユノの人生に飛び込んできた真理子は、ユノのディスレクシアを治そうとするのではなく、分かろうとする殆ど初めての大人だった。理解するためなら遠慮なく距離を詰めてくる彼女にペースを乱され、苛立ったりもしながら、しかしだからこそ、ユノ自身おぼろげながらも気付き始めるのだ。ぼくだって〈ディスレクシア〉を好んで選んだ訳ではない、ということに。故に、ぼくのディスレクシアはぼくのせいじゃない、ということに。
 即ち、だ。《ぼくが悪いみたいになるじゃないか》という反発は、「ぼくは悪くない」という、更に意訳すれば「ぼくにだって価値がある」という、ユノの初めての自己肯定だったのではないか。

 恐らくは、それを自分に証明するためだろう。真理子の庇護を振り切ったユノが、《やったことのないことをやってみる》と、それだけを決意して、たった一人で旅のゴールを目指したのは。

《未来まで見渡せそうな、胸のすく場所へ行け。そこで自分の北極星を決めるんだ》。亡き父に、かつてそう諭された。《近くばかり気にするから怖くなるの。/遠くを見なさい》。亡き母は、観覧車でそう教えてくれた。
 その意味を、旅のゴールで、地上百数十メートルの高みから眼下の景色を見下ろした時に、ユノは初めて理解する。そして、己のハンディキャップを、スティーヴン・キングの『IT』の悪役になぞらえる。《ぼくに襲い来る問題も、ありふれたものが増えていくんだろう。ディスレクシアはぼくだけのペニーワイズとしてこの先もつきまとってくるんだろうけど、だけど、そいつばかりを怖がってはいられなくなるのだろう》。
 つまりはこの時、ついにユノは、ディスレクシアを得体の知れない怪物としてではなく、"ありふれた問題"の中のたったの一個、というだけの存在に縮小してみせたのだ。そうして、目の前に立ちはだかっていた〈ディスレクシア〉という壁を、ひょいと跨いでみせたのだ。

 ユノが、旅の思い出である星型のリフレクターを揺らして、赤ん坊をあやすラストシーン。《ほら、星だよ、星があるよ》という囁きは、死ぬ間際まで自分の将来を案じていたであろう父母への宣誓だろうか。それとも、自分自身へのエールだったのか。恐らくはその両方だろう。「ぼくも北極星を見つけたよ」と。「だからもう、自分の足で進んで行けるよ」と。

 刊行から既に5年近いんですが、そろそろどっか、文庫にしてくれませんかね。

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丸善お茶の水店 沢田史郎
丸善お茶の水店 沢田史郎
小説が好きなだけのイチ書店員。SF、ファンタジー、ミステリーは不得手なので、それ以外のジャンルが大半になりそう。 新刊は、なんだかんだで紹介して貰える機会は多いので、出来る限り既刊を採り上げるつもりです。本は手に取った時が新刊、読みたい時が面白い時。「これ読みたい」という本を、1冊でも見つけて貰えたら嬉しいです。