第1回 博水社に、サワーの秘密を聞きにいく

1.街の「ジュース屋」さん

kud102-1.jpg1980年代に「ハイサワー」で一世を風靡した博水社は、2008年で創業80周年を迎えた歴史のある会社です。三代目シスターズの姉、田中秀子社長にまずお話をうかがうことができました。

「戦前は田中武雄商店といって、祖父の名前が社名でした。軍隊に白酒を卸していたと聞いています。戦争で立ち退きになりましたが、戦後また目黒に戻り、博水社になりました」。
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「博」とは広く知らしめるという意味。「博水社」は水を使った飲料を広く知らしめる会社、という意味だそうです。

戦後、町の小さな清涼飲料業者は、地元の人から親しみをもって「ジュース屋さん」と呼ばれました。1951(昭和26)年11月、進駐軍によって持ち込まれたバヤリースオレンジの一般販売が許可されると、爆発的な「オレンジジュース」ブームが起こり、中小メーカーも次々と追随商品を出したためです。博水社もこの頃、ジュース屋として成長します。

バヤリースはオレンジ果実を破砕して裏ごししたピューレーを、10%程度の果汁に希釈して、オレンジオイルを乳化した香料を加えたもので、本当は「ジュース」(果汁100%のみに認められた名称)ではなくオレンジエードですが、当時の日本人には本物の果汁が入った飲料がたいへん珍しかったので、ジュースという呼び名が定着したのです。

100%果汁が当たり前になった今では信じがたいですが、『果汁の時代』という文献によると、バヤリースの色こそが本物のオレンジ果汁、「オレンジジュースだという印象を与えていて、フレッシュな天然色で中味はピュアなのが大きな魅力」と考えられていたそうです。

というのも、1947(昭和22)年に食品衛生法が制定されるまで、清涼飲料は明治33年の「清涼飲料水営業取締規則」(内務省)によって、混濁・沈殿が認められず、透明でなければなりませんでした。これは、中身が腐敗変質していないか、外からビンを透かして視認できるようにするためです。

つまり、果汁の腐敗を防ぐ技術がそもそも不足していたため、果汁を入れられないように規制されていたのです。そこで日本の清涼飲料メーカーは、香料と色素でそれらしい色をつけた、無果汁のジュースやシロップ(果実蜜)を作りました。香料とは、果皮から採った香油またはアルコール浸出の可溶性果実エッセンスのことです。

そもそもラムネやサイダー自体、砂糖とクエン酸にレモンやパイナップルのエッセンス(香料)を加えて作るものですから、中小メーカーにとり、無果汁の「ジュース」はお手のもの。しかも戦後になって、混濁により果汁感の出る、乳化香料が認可されたのも追い風でした。1961年刊行・『清涼飲料ハンドブック』によると、バヤリースオレンジのブームに便乗した結果、東京だけで300社、全国では3000社ものメーカーが林立したといいます。

田中社長の話では、甘いものが貴重な当時、砂糖水にみかんのエッセンスを入れただけの、果汁を入れない「ジュース」でも飛ぶように売れ、1954(昭和29)年に工場を建てたそうです。みかん水のほか、ラムネ、サイダー、カキ氷のシロップ、コンクジュースなどを製造しました。

コンクとはサントリーの造語で、コンセントレート(濃縮)からきた言葉。1958(昭和33)年頃から、喫茶店の業務用やデパートの進物用として、水や炭酸で4~5倍程度に希釈する「濃厚ジュース」が人気を呼び、1961(昭和36)年にはジュース類売上のトップになるほどでした。

しかし、同じ昭和36年にコカ・コーラ社の日本市場参入が認められると、売れ筋はコーラやファンタ、ミリンダなど、大手メーカーのフレーバー炭酸飲料(着色料と香料を加えた炭酸飲料)のブランドへ移り、中小の「町のジュース屋さん」が出る幕はなくなってしまったのです。倒産・廃業の結果、東京の清涼飲料メーカーは30数社、約1/10になりました。博水社も、1960-70年代は大手に押されて、細々と営業を続けていたといいます。

株式会社博水社
田中専一会長
田中秀子代表取締役社長

本社:
東京都目黒区目黒本町6-2-2
資本金1000万円
従業員20名
沿革:
昭和3年 創業
昭和27年 博水社設立
昭和55年 「ハイサワー」発売
平成18年 「ハイッピー」発売
平成20年 田中秀子氏社長就任

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