11月12日(火)岩川隆をもう一度・その2

 近代化をはかって日本中央競馬会がバリアー式をやめ、スターティンクゲートを導入したのは昭和三十六年である。

「あんなもの、大勢で馬をハコの中へ押し込んで、バタン、パッ、と出してやるだけで、ね。びっくり箱みてえなもんだ。これじゃ馬追いの腕なんかいらねえじゃないか。おれはもう、いらねえだろう。そう思ったよ。馬と人のかけひき、なにくそっとも思うし、神経も使う。そこに仕事の生き甲斐もあるというものだが、びっくり箱の手伝いなんか、馬鹿馬鹿しくってやれねえや。だから、さっさとやめちゃったんだ」

 岩川隆のノンフィクションは、取材対象の生の声がいつも聞こえてくるようで、とてもリアルだ。サイちゃんは現役を引退後は、厩舎係などをつとめたあと、昭和四十二年の定年退職後はアルバイトとして、厩務員の共同風呂や騎手調整ルームのボイラーマンの生活を送っている。岩川隆が取材した当時のサイちゃんの生活も、著者はきちんと書き留めている。サイちゃんは午前2時に起床、一合の飯を炊いて、これを神棚仏壇に供え(三年前に細君に先立たれた)、三時半に家を出て、四時半には調整ルームのボイラーのスイッチを入れ、蒸し風呂の掃除を行う。七時五十分には競馬場西口のさきの十字路まで行って登校する小学生たちの交通整理を手がける。ふたたび競馬場に戻ってからは仕事の合間に、気軽にあちこちの雑用を買って出て、一日中めまぐるしく自転車に乗って動きまわり、ひとの顔を見ると「ご苦労さん」と陽気な声を発し、笑いを絶やさない。

 そういうサイちゃんの1日が紹介されると、「馬追い」が遙か昔の歴史上のことではなく、現代に続いている人間の営みの一つという真実が浮かび上がってくる。素晴らしいドキュメントだ。

 矢野幸夫調教師(取材当時は六十一歳)の整体術を描く一編、「東洋医学が効く〔人馬整体〕が走る」もなかなか興味深く、そういう作品がこの書には数多く収められてる。馬事文化賞を受賞した『広く天下の優駿を求む』よりも、この『競馬人間学』のほうが遙かに本としては素晴らしい。

 この『競馬人間学』に匹敵するのは、『ロングショットをもう一丁』だろう。この書には、日本競馬名人列伝、との副題が付けられている。ここでいう「名人」とは、馬追いのサイちゃんのような競馬界の裏方さんたち、陰で競馬を支えている職人たちではなく、巷の競馬名人のこと。よくもまあ、こんな人たちをみつけてきたよなあ、という「名人」が次々に登場する。著者が創作した人間ならば、どんな人物でも作品に登場させられるが、そうではないのだ。たとえば、著者が函館競馬場で会った「万券のカトちゃん」だ。きちんと名前が出てくる。「大野町議会副議長」「自民党渡島連合副支部長」という名刺が紹介されるから、明らかに実在の人物だろう。この人が馬券をずばずば当ててしまうのだ。その現場に遭遇した著者が、「万券のカトちゃん」に秘訣を聞くくだりにこうある。

「牝馬の痩せた(体重減)のはほとんどコないよ」

 おお、そうなのか。そんなこと、考えたことがなかった。
 
しかし、そういう「馬券名人」が次々に登場するわけではない。「みちのくに俳諧仙人あり」という項では、七十九歳の佐藤光五郎さんが紹介されるのだが、この人は競馬場で俳句を詠む。

 醍醐味はスタンドで喰ふ握りめし
 馬券嬢 瞳涼しかり我に福
 余韻あるレースとなりて穴は出ず
 馬券当て行きずり人にも笑みを投ぐ
 勝ち馬をまよいしあげく忘妻に聞く

 そこで著者は次のように書いている。

「心は競馬場に遊んでいる。儲けようなどと思わないで無心に馬を眺めたり、走る姿を追っていると、不思議に、馬券のほうから当たってくださるものだ」

 こういうふうに、さまざまな「名人」が紹介されていくのだが、白眉は「赤い毛糸のベレー帽」という一編だ。競馬で家を建てた人がいる、と聞いて著者が訪ねていくのだが、その人、加藤保隆さん九十歳の人生に圧倒される。

 著者は浦和競馬場に会いに行くのだが、その老人はレースが終わると埼玉新聞本社にレース結果を電話送稿。なんと九十歳の現役記者なのだ。関東大震災の前から弁士として働いていたが、知り合いのイッちゃん(河野一郎)が代議士になったので、その鞄持ちで全国遊説についていく。イッちゃんが政治演説している間は現地の競馬場に「視察」に行き、そのうちに予想紙の発行を思いつく。まだ専門紙の当日版がなかったころの昭和2年である。「加藤の赤新聞」として評判になり、中山東京でも戦争中も売っていたという。最後は女性関係だが、その詳しいことは本書を読まれたい。絶版だが、そう珍しい本でもなので古書店で容易に入手できるだろう。