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2月4日(月)

 土曜日、兄貴の引越を手伝いに行った。僕に感化され、いつの間にかレッズバカになっていた兄貴も結婚とともに浦和に越してきていたが、ちょっとした事情で東京に住むことになってしまった。兄貴はホームタウンから離れることを悲しみ、泣く泣く荷物を詰め込んでいた。

 その引越で久しぶりにサッカー場以外で家族4人が集まった。お袋は台所で皿を包み、オヤジは家具を分解していた。こんな風に家族がひとつのことをするのはいつ以来だろうか?

 僕はオヤジが分解した家具を、搬送後、すぐ組み立てられるように順序を書きながらひもでくくりつけていった。作業をしながらオヤジは仕事の話をしていた。「先週、取引先に会いに京都へ行った」「新製品の注文が千個くらい取れそうで、うまくいくと年内で5000個まで伸びるかもしれない」と。

 いつ頃からだろうか。オヤジは僕に会うと仕事の話をするようになった。うまくいっている話もあれば、取引先が倒産し、資金が焦げ付いた話もある。その時、その時、会社で起こっていることをかいつまんで僕に話していた。

 僕のオヤジはとても小さな町工場を経営している。僕が小学校5年のとき、唐突に今まで勤めていた会社を辞め、会社を設立したのだ。その日、オヤジは家族を居間に集め「お父さんは自分で会社をやることにした。ちょっと苦労をするかもしれないけれど一緒に頑張って欲しい」と頭を下げた。事の重大さがわかっていなかった幼き僕は、「おとーは社長になるということか?」と聞いた。「そうだ」と答えられ、この世で社長が一番エライと思っていた頃だったから思わず有頂天に喜んでしまった。しかし、少し険しい顔をしたお袋に「失敗したらこの家もなくなるんだからね」とたしなめられ、とても怖くなってしまった。

 オヤジはきっと取引先ごと引っこ抜いて独立しようとしたのだと思う。いや、多くの取引先に「杉江さんを応援するから!」と迷っている背中を押されたのだ。ところが、いざ独立すると、その多くの取引先が手のひらを返すように逃げていった。「空いている部屋を事務所用に貸してやる」とまで言って応援していた人も「そんな話をしたかね?」ととぼけた。結局、あてにしていた仕事場も取引もすべて消えていき、オヤジは途方に暮れた。しかし、これで本当に「ゼロからのスタート」になったと夜遅くお袋に話し込んでいるを聞いた覚えもある。

 そして、僕が予想もしなかった貧乏が我が家にやってきた。儲からなければ給料が出ないという自営業者なら当たり前のことを僕はそのとき初めて知った。それまで毎月オヤジの給料日には決まって食べに行っていた「焼き肉」が給料日ごとなくなり、サッカーのジャージやスパイクももちろん買えなくなった。衣・食・住のうち、<住>だけは山のように残っているローンをどうにか払い続け住む場所だけは困らなかったけれど、<衣>と<食>は完全に行き詰まった。

 我が家の米びつは何度も空っぽになり、その度に、終戦後でもないのに、お袋は近所を廻り米を貰い歩いた。僕が洋服を買えないということに癇癪を起こしたとき、近所のおばさんが買ってくれたこともあった。今でこそお袋は「本当の友達が誰か?」ということがそのときわかった、笑って話すが、その時味わった屈辱感をいまだ拭うことはできないでいる。冗談でなく、ステーキハウスのチラシを見ながら、ご飯だけを食べたこともあった。ただただ、そんなみすぼらしいだけの生活と、毎日得意先を走り回るオヤジが我が家の姿だった。その頃の合い言葉は「また焼き肉を食べられるようになろう」だった。

 その後、オヤジはコツコツ取引先を訪問し、少しづつ少しづつ仕事を増やしていった。独立して5年が過ぎた頃だろうか。また焼き肉を食べられるようになったのは…。お店の人は毎月25日に決まって通っていた僕ら家族が来なくなってしまったことをずっと心配していて、その間の事情を話すと一緒になって涙を流し喜んでくれた。その日の焼き肉の味を僕ら家族は一生忘れないだろう。

 そして世の中に、バブルが到来し、はじけ、今となった。オヤジは、会社設立当時に経営者にとって一番大事なことである「うまい話なんてこの世にひとつもない」という事実を身をもって体験していたから、バブルに踊らされることなく、今もどうにか会社を潰さずに持ちこたえさしている。還暦前の身体にムチを打ち取引先を廻っているという。

 きっと僕に仕事の話をするようになったのは、僕をいくらか社会人として認めてくれているからだろう。しかし、僕は、あの頃、こんな貧乏を体験させたクソ野郎だと思っていたオヤジに、未だ追いつけそうにない。悔しいけれど、まだまだ、だ。