5月23日(木)
朝、郵便物を仕分けしていたら、僕宛にとても大きな封筒が送られてきた。厚さはそれほどなく、どう考えても本ではない。そして「二つ折り厳禁」の文字。いったい何?と思いながら仕分け作業を中断し、差出人の名前を確認する。しかし、見覚えのない名前が書かれていた。
いったいこれは何なんだ?とあわてて開封すると厳重にダンボールで挟まれた一枚の色紙が出てくるではないか。そこには、なぜか浦和レッズのステッカーが貼られていて、直筆サインと3番の文字。3番…。我らが井原正巳のサインだぁ!
話は急に変わるが、GWの4月30日。ナビスコカップホーム駒場での鹿島アントラーズ戦。前半0対0で折り返した後半、レッズが一気に攻め出す。そして2得点を挙げた。今日は押せ押せか…という雰囲気が漂いだした駒場スタジアムに目を覆うようなミスが出る。それは上記の井原のクリアーミスだった。そこから一気に攻め込まれ1点返され、もしやと考えているうちにまたその井原の絡むシーンで失点。信じられないことに楽勝のはずが終了間際に同点に追いつかれてしまったのだ。スタジアムの雰囲気は最悪な状態に変わる。怒り、嘆き、不甲斐なさ。怒号のような叫びのなか、僕は「絶対あきらめるんじゃねぇぞ」と怒鳴っていた。
審判が時計を確認し出したその時、奇跡は起きた。我がレッズは、鹿島エンドのペナルティーエリア外側からFKを獲る。キッカーは福田。いったん右で構えたあと左に移り、GKの遠い方向からゴール前に曲がるボールを蹴った。そこに飛び込んだのは、散々失敗を繰り返した井原だった。頭で合わせたボールはゴール右隅をとらえ、ネットを揺らした。
浦和名物バカサッカーといってしまえば、それまでだが、引き分けを覚悟した僕には興奮の勝利だった。スタンドも大いにわいた。しかしなぜかゴールを決めた井原は雄叫びを上げるのではなく、集まった選手にペコペコ頭を下げていた。
これは家に帰ってからビデオで確認したのだが、井原はゴールを決めた後、しきりにチームメイトに「ごめん」と謝っていたのだ。それは信じられない光景だった。ゴールを決めた選手が、それも決勝ゴールを決めた選手が謝るなんて…。
それでもしばらく考えているうちに僕は気づいた。こうやってミスをした選手が点を決めるとよく「ミスを帳消しにするゴール」と言う。しかしベテラン井原は、ミスはどんな状況でも帳消しにはならないということをわかっているのだ。ミスはミス、ゴールはゴール。それは完全に別物なのだと。ドラマチックな勝ち方よりも無失点で勝つことの方が、どれだけチームにとってもサポーターにとっても大事なことだとわかっていたのだ。だからこそ、謙虚に謝り続けたのだ。
その瞬間、僕の井原への想いが劇的に変わった。今までどうしても井原は「青」の意識が抜けずにいた。青は、マリノスのカラーであり、日本代表のカラーだ。そして僕は、なかなか井原を仲間として認められずにいた。しかしこの日からものすごく近い存在に感じられるようになった。紛れもなくレッズのそして赤の井原に…。
そんな風にして、僕は今、井原正巳がとても好きなのだ。しかしなぜその井原のサインが僕の手元に届けられたのか? いったい誰が?
再度封筒の中味を確認すると、奥の方に一通の手紙が同封されていた。あわてて取り出し、読み出すと僕の謎は一気に溶けた。旧姓であれば一発でわかったのだ。そう、昨年夏に結婚退職されていった立川のO書店Sさんからの届け物だったのだ。
その手紙には、井原のサインを手に入れ、僕に送ることになった経緯が書かれていた。そして、サインのことから思いだし、久しぶりに見た当「炎の営業日誌」の感想と、僕の営業に対する、それはそれはとても身に余る信頼の言葉が書かれていた。
文面を追いながら、まるでドラマのように僕の頭のなかにはSさんが浮かんだ。元気な姿と笑顔、スッキリとしたしゃべり口調が鮮明に思い出された。気づいたときには目頭が熱くなっていた。
この会社で働きだして4年半。前任者が体調を崩していたためほとんど引継もなく、ただただ、がむしゃらに書店さんの扉を開けるしかなった。営業として何が正しくて、何が間違っているか、誰も教えてくれなかった。上司もいなければ同僚もいない。基準がどこにもなかった。営業先の書店さんに教わりながら、手探りで進むことしかできなった。そして今でも自分のやり方が正しいのか自信はない。
でも…。こうやって、例えひとりの書店員さんとはいえ、僕の仕事のやり方を信用してくれた人がいるなら、それでいいじゃないかと思えてくる。そう、僕は間違ってはいなかったんだと。それは今まで仕事をしていて感じたことのない大きな喜びであったし、自分を肯定できる数少ない瞬間だった。
自然と涙がこぼれ落ちそうになった。でも、朝からみんなの前で泣くなんて恥ずかしすぎると思い、僕は唐突に歌い出した。そう井原のコールを。
「イハラー、イハラー、イハラー。」
事務の浜田や経理の小林はビックリして僕を見つめる。
「イハラー、イハラー、イハラー、……。」
その井原のコールは長く歌えずに終わった。結局涙をこらえきれなくなって、声が出なくなってしまった。
井原のサイン以上に、Sさんからの手紙は僕の宝物だ。