7月17日(水) 友からの電話 その1
友人ダボから電話があった。
ダボはもちろんあだ名で、ダボハゼに似たボーっとした顔つきだったからだ。そんな残酷なあだ名を付けたのは僕で、中学1年の入学式が終わってすぐのことだった。
ダボはそのあだ名どおり、どこかおっとりとした少年だった。それはもしかしたら誕生日に理由があるのかもしれないと今になって考える。ダボは4月1日生まれだった。日本の学校制度では、ひとつの学年の一番どんけつの生まれだ。子供の成長にとって、半年、一年はかなりの差を生むものだと思う。ダボはいつでも誰かの後ろにひっついていて、自分から進んで何かをやるタイプではなかった。
中学一年の時、そのクラスで一番うるさかったのは僕だ。頭と心と身体のバランスがまったく取れず、反抗をくり返していた。先生から見ても、クラスメートから見ても一番嫌な奴だった。
いつの間にか、ダボ的人生観からなのか、ダボは僕の後を付いてくるようになった。授業中も、休み時間も、登下校も、帰宅後もダボは僕の周りにいた。
二十歳を越えた頃ダボに聞いたことがあった。
「何でオレと遊んでいたんだ?」
「面白そうだったんだよ、変なことばっかりしていたでしょ。ちょっと恐かったけど…」
僕はダボと異様に気があった。それは周りから見たら親分子分の関係としてだったのかもしれないが、僕は二人兄弟の末っ子で育ったため、弟が欲しいという考えがあったからだと思う。ダボは半年違いの弟だった。
僕とダボは野球が好きだった。僕はヤクルト、ダボは近鉄のファンだった。中学1年の正月、ダボは自慢げに僕の家にやって来たことがあった。「ジャジャーン!」という感じで手に持っていた一枚の紙片を見せられた。それはその頃近鉄のエースだった鈴木啓司から届いた年賀状だった。今でもそれは彼の宝物だ。
ダボはもちろんそのあだ名とおり運動神経がない。だからふたりでキャッチボールをすることはなかった。机上の野球話に花を咲かせ、カードゲームをやっていた。僕もダボも愛読書は日刊スポーツが発行する『プロ野球選手名鑑』だった。ふたりは各チームのほとんどの選手を覚えていて、授業中「阪急の52番は?」なんてクイズをしていた。
中学2年になり、クラス替えが行われた。ダボとは違うクラスとなった。クラスが変われば他人のようになり、ダボとは部活も違うので、ほとんど会う機会がなくなっていた。僕は遊びと部活に忙しく、ダボに会っていないことも忘れていた。
そんなある日、確か夏になる前だったと記憶する。部活を終えて、夕飯まで我慢が出来ず、握り飯を食べていたとき、母親が怪訝な顔をして僕に聞いた。怪訝な顔をした母親が言い出すのはいつも決まって恐ろしいことだった。「あんた廊下に立たされて、それが嫌だから校庭で遊んでいたでしょ?」「あんたまた先生に大声で文句言っていたでしょ?」どこから手に入れた情報なのかわからなかったが、僕の悪行はすべて母親にばれていた。
でもその日、怪訝な顔をして母親が切り出したのはまったく違うことだった。
「最近ダボ、来ないね」
面倒見の良い僕の母親は近所の子供、僕の友達をまるで自分の子供のように可愛がった。ときには叱ることもあった。
「あのね、ダボの家に買い物に行ったの。」
ダボの家は、その町で酒屋を営んでいた。
「そしたらダボのお母さんが、ダボが最近学校に行きたくないって言い出して心配だって話していたのよ」
僕はおにぎりを食いながら、数日前校庭で顔を会わしたとき、ダボに元気がなかったことを思い出していた。
「杉江君といたときは楽しそうに行っていたのにって…。ダボ、クラスで虐められているんじゃないの?」
<つづく>