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12月2日(土) 炎のチャンピオン日誌

 朝5時頃、隣で寝ている娘が肩を叩いてくる。寝ぼけマナコで「どうした?」と聞くと、「私の布団が濡れてる…」との返事。濡れてる? 濡れてる? 濡れてる? それって寝小便じゃねーか!というわけで娘の寝小便から始まった我が人生及び浦和レッズの最良の日。我が家には地図の書かれた布団と浦和レッズの旗が掲げられることになった。

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 自転車を漕ぎ出して驚いたのなんの! 僕がサイスタに向かう道は463号バイパスなのであるが、ここは選手達が浦和のホテルからサイスタに向かう道でもある。その道路脇の電信柱が赤くなっているではないか。いったい誰がいつからこんな仕掛けをしたのか。段幕をこれだけ用意するのだって大変だし、設置するのも大変だ。(その後なんと道路脇の木々に赤いリボンまでぶらさげられているのも発見!) こんなことワールドカップでもなかったぜ! まさに「浦和の街を赤くしようぜ!」計画。 うぉー、すげーぞ浦和、すげーぞサポーター、何だよ何だよ何だよ。朝からおいらを泣かせるなよ。

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ガチガチの浦和レッズのDF陣を切り裂いたのはやはり播戸とマグノアウベスで、この瞬間、古くからのレッズサポの多くが患っている「スタジアムネガティブシンドローム」が僕の頭のなかを漂い出す。やっぱりそうだよね、いざというときは、得失点で負けるんだよね。0対3だよ、0対3。それはまさに僕らが14年間背負い込んできた負け犬根性でしかないのだが、そんな根性をまったく持っていないポンテが、ワシントンからのボールに猛烈ダッシュ、シジクレイを抜きさり、ゴール。うおーーーーーー! 熱烈抱擁。

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前半終了間際、ワシントンがゴールを決め、世界で一番幸せな45分が始まろうとしていた。その頃から、僕の頭のなかには、14年間の、様々な出来事が思い出されていた。それはレッズのことではなく、レッズと僕の廻りで起きたこと。

 結婚したこと。その了承を取りに妻の家族に会いに行ったとき僕は開口一番こう伝えた。「酒もタバコも賭け事もやりません。いややっていたとしても辞めます。でも浦和レッズだけはやめられませんので、そこだけはお許し下さい。」あのとき妻の母親はビックリしていたけれど、今じゃ僕がスタジアムから帰ると部屋から顔を出し「勝って良かったですね」なんて一緒に喜んでくれるようになっている。

 子供が生まれたこと。一人目の子供には「優希」と名付けた。もちろん浦和レッズの優勝を希望して。そして二人目の子供には「剛」(ごう)と名付けた。スタジアムで僕が一番叫ぶ言葉「GO!」から取った。

 両親のこと。母親は21年飼っていた愛猫を失い、ペットロスシンドロームで一歩間違えば自殺していた可能性もあった。また父親は町工場の経営に疲れ果て、何かが必要だった。そのふたりにとっての何かが浦和レッズだった。

 仲間がたくさんできたこと。その二人目の子供が妻の腹になかにいたとき、母子ともに体調を崩し長期入院することがあった。そのとき僕を支えてくれたのは、このレッズを一緒に応援する仲間だ。年配であるKさんやYさんから「人生いろいろあるからさ」なんて肩を叩かれ励まされたからこそ今の僕も僕の家族もあるし、また観戦復帰してすぐOさんに熱く抱きしめられたこと。僕は一生忘れない。僕らは浦和レッズを中心にして集まったけれど、今じゃ浦和レッズがなくても大切な仲間だ。

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 試合終了間際から始まった「アレオ浦和」のコールのなかで、僕はそんなことをひとつひとつ思い出し号泣していた。浦和レッズの14年はそのまま僕の二十歳以降の14年間であり、それは青年から大人になるまでの苦闘の時でもあったのだ。

 ピッピッピーーーーーー! ウオー!!!
 一番古くからの観戦仲間KさんとOさんと抱き合う。3人とも号泣だ。

 わかったぞ! わかったぞ!
 優勝はうれしいんじゃなくて、楽しいんだ!
 こんな楽しい瞬間が人生に訪れるなんて。
 この楽しさ、娘や息子にも絶対教えてやろう。

 We are reds !