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第1回

 書店に入社した頃、ヨキミセサカエルなレジスターの横には、小さなガラス容器に入った海綿が常備してありました。なぜこんなところに海の生きものが?と思っているうちに、今度はもっと小さなプラスチックの平べったい容器に入った、ぬるぬるな物体に交替。指先のすべり止め用クリーム(?)、メクールですね。

 メクールとはそれ以来の長い付き合い。ワタシの行くところどこでも、メクールあり。レジはもちろん、事務所のデスク、店内の作業台、ブックトラック、エプロンのポケット、そして自宅にも。ワタシの書店人生はメクールとともにあり。

 ということで、書店店頭での楽しい“めくるめくめくーるな日々”を、毎回本屋的キーワードをお題に、書き散らしていこうと思います。よろしくお付き合いくださいませ。

さて、今回のお題は『スリップ』。メクールときたら、スリップ。これ、まだ死語じゃないですよね。相変わらず本にははさんでありますものね。

 書店にとってのスリップの役割というのは、ここ5年くらいで劇的に変化しました。実際にはスリップを使わなくても済む方向に仕事のしかたを変えてきたわけですね。
とは言え、やはり1冊1冊に必ず入っているというのは素晴らしい仕組み。何かに役立てないともったいない。

 スリップは、レジでの販売時に抜き取るわけですが、その売れた本に入っていたスリップの束を手に取ったときの手応えは格別。売れた量が一目瞭然。明快に確認できます。それを数えたり、眺めたりする時間というのは書店員にとって至福のひととき。

 もちろん今は、レジカウンターにある画面でもすぐ見ることができるようになりました。でもね、10冊売れていたらスリップも10枚あるというリアルも、大事なのではないかしら。

 書店員にとって扱い易いスリップは、必要事項がひとめでわかるタイプ。タイトル、著者、出版社、本体価格、ISBNコード。一枚のスリップに1.5秒くらいしか時間を割けないので、シンプルが一番。難しいのは手に余るスリップ。文字通り横幅が大きくて片手で握れない。高級な固い紙も手が切れちゃう。他の本の注文書も印刷しちゃった欲張りタイプはもってのほか。1冊に何枚も差し込んでいるのも手間がかかります。

 10年くらい前のことですが、その頃の勤務先はウチからちょっと不便で、通勤に3回乗り換えて通っていました。その日も勤務中にスリップを見る時間を捻出できなかったワタシは、夜10時頃の乗換え駅の暗いホームで、かばんからおもむろにスリップの束を取り出しました。

「おお!みんな元気に巣立って行ったことよ!どれどれお母さんに成果を見せておくれ」。まさかスリップに笑いかけたりはしていなかったはず。

 その当時、恥ずかしいことに毎日これをやっていました。駅のベンチに座って、かばんの中で輪ゴムを弾き飛ばして溢れかえっているスリップを、1枚1枚集めて束ねたり、並べ替えたり。もちろんメクールも膝の上に常備。今思えば、電車の中でのお化粧的なオレ様行為ですね。

 するとそのとき、見知らぬおじさまが、薄暗い電灯の中から「いったい何してるんだ?」と声をかけてくるではないですか。  ひぇー!だれぇー!? 要らないスリップを駅のゴミ箱に捨てたから、非番の駅員さんに怒られたんだよぉ。ごめんなさい、もうしません!

「あんた本屋さんだろ?知ってるよ。いつもそれやってるな」 あれぇー、もしかして取引先の人? 仕事遅くてご迷惑かけますぅ!

「何年か前は○○○の駅でやってただろ。オレもその駅使ってたからさ。勤め先変えたの?」 そ、そうです、というか、異動になったんですぅ! はっ? それが何か?
 
 ちょっと心の余裕を取り戻して、おじさまを見てみると、スポーツ刈りの清潔そうな40代。目は笑ってないけれど、悪者ではなさそう。まぁ、スリップに興味のある悪者もいないだろうけど。

 結局、おじさまは、以前ワタシが働いていた本屋と同じビルに入っていた、寿司屋の板前さんでした。なので、ワタシが本屋だということは知っていたのですね。最寄駅のベンチで、小さな紙の束をなでているワタシを何度も見ていたわけでした。

 その後板前さんはお店を変わったということで、あるとき、駅は違うけれど相変わらず小さな紙の束を嬉しそうに数えるワタシを見かけて、思わず声を掛けたと。板前さんはワタシのしていることがとても不思議だったらしく、乗り換えた電車の中で質問の続き。本当に何してるのか知りたかったみたい。

律儀なワタシは、「これはスリップといって、書店においてある本には必ずはさんであるもので…」「半分からちょん切って、凸のある方が注文スリップ、凹の方が売上スリップといって、それぞれ役割があり…」とか、たっぷりOJTをしました。

 得意だったんだけど、今思えば板前さんはかなり引いてたでしょうね。本屋に明日入社する訳じゃないんだから。今ならもう少しましな世間話ができると思うので、また声をお掛けください。目印に、胸ポケットにスリップの束を入れておきましょう!

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