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「坂の上のパルコ」 第1回第2話

第1回:「渋谷の栄光は『バカドリル』とともに」

藤本真佐夫(PARCO出版)VS矢部潤子(リブロ池袋本店)

(第2話)パルコブックセンター渋谷店オープン

矢部
今日はさ、自分の経歴を思い出してきたんだ。私は83年6月にパルコ新所沢店がオープンするときに入社したの。その前は芳林堂で働いていたんだけど、辞める時に、もう書店員はいいやと思って、普通の事務職でもしようと、家が近いもんだからパルコに応募したのね。といってもパルコの子会社のアクロスというパルコにいろんなお店を出店する会社なんだけど。それで面接に行ったら、その相手が芳林堂時代の上司で、「事務職なんてダメだ。本屋もあるから本屋で働け」って、書店に配属されちゃった。それから89年はP-BCが名古屋や調布にお店を出した年なんだけど、その際の異動で3月に吉祥寺店に行って、92年の12月に渋谷店オープンのために本部に入るんだね。あの頃は書店も裕福だったね。本部でオープン用の注文書をちっくりちっくり書いてたんだから。そして93年の3月に渋谷店がオープンした。
藤本
渋谷を作るときって何か意識されたことってあったんですか?
矢部
いや、私は単なるスタッフで、店長は別にいたし、その店長の意向というのがもちろんあったと思うんだけど、決して渋谷に合わせたマーケット、サブカルだとかなんだとかというのはなかったと思う。唯一あったとしたら学習参考書を置かないっていうコンセプトはあったかな。渋谷には大盛堂や三省堂や紀伊國屋がすでにあったから、後発で出ていくのに、フルラインでなくてもいいかという考えが。
藤本
あの坂を登って学習参考書を求めにくるお客さんはそうはいないですよね。
矢部
ただ最初はなぜか赤本だけはあったりしたんだよね。諦めきれずにだったのかな。何年目かにその辺も全部辞めて、児童書も減らした記憶がある。でもあの時代に学習参考書を置かないというのは、勇気のいることだった。総合書店としては。一番手堅い商品だったからね。
藤本
そうですね。あと意識したといえば、本店機能を持たせるってことじゃなかったでしたっけ?
矢部
それはあった。パルコの本拠地といえば渋谷だったから、そこについに出店できるって思いは強かった。特に上の人たちは勢いこんでいたよ。渋谷こそ本店にしようみたいな。
藤本
それまで渋谷のパルコパート1には、6階に洋書ロゴスがあったんです。
矢部
渋谷店オープンのときにそのロゴスに降りて来てもらって、一緒に大きなお店にした。元々、売り場になる地下一階は子供服売り場で、小さいお店がいっぱいあった。それが無くなって、ほとんどワンフロアーをP-BCで使ったんだよね。それで私は12月から本部に入って、オープンのときのフェアをいくつか考えなきゃと、うんうん唸っていた。
藤本
当時はフェアができる平台が何台ありましたっけ?
矢部
いっぱいあった(笑)。
藤本
やりたい放題でしたよね。
矢部
そうそう。そのひとつがマルコムXのフェアだった。でも店長は気に入らなかった(笑)。
藤本
社会派じゃなく、ファッションとかやって欲しかったんじゃないですかね?もうちょっとオシャレな。僕はそのとき吉祥寺店を辞めていて、ふらふらしていたんです。それでラブホテルのアルバイトの面接を受ける予定で渋谷に行ったんですけど、そういえば矢部さんが異動になっていたなって思い出して、挨拶に行ったんですよ。
矢部
あれオープンしてすぐだよね、一日目か二日目。私はまだ藤本君が吉祥寺店で働いていると思っていた。
藤本
「辞めた」っていったら、矢部さんが「PARCO出版でバイト募集しているからお前やるか?」って話になって、面接に行く途中だったから、ちょうど履歴書を持っていて、そのまま面接に行って、採用してもらったんです。
矢部
そうだ、その場からPARCO出版に電話したんだよね。で、いいよ、面接しましょうなんて。
藤本
次の週から働き出した。あの頃はお近くだったから、しょっちゅう渋谷店に顔を出しては、矢部さんの邪魔をしていました。
矢部
オープンといえば、開店当日の朝にカバーが折れてなくて、すごくあわくった覚えがあるよ。
藤本
あの日比野克彦さんがデザインしたカバーって、渋谷店オープン時に作ったんですよね?
矢部
そうそう、あのときに作ったの。エプロンも一緒に作ったんだ。日比野さんの前は、ヤニス・クセナキスっていう現代音楽家の楽譜のカバーだった。
藤本
そうでしたね。あのクセナキスのデザインは、初め子供の落書きをそのまま取り入れたんだと思ってたんです。それで、先輩に「落書きなんて、カッコイイですね 」っ て言ったら「バカ、これ楽譜だよ。クセナキスの」って教えてもらいました(笑)。
矢部
色がグレーでね。あれもカッコ良かったんだけど、渋谷店オープン時に新しくしようと日比野克彦さんに頼みにいったんだよね。そういえばP-BCが無くなる時に日比野 さんの事務所にカバーやエプロンやセロテープを届けたなあ。
藤本
書店がそれまでデザイン的にアピールするということはほとんどなくて、本を入れるビニール袋もP-BCはオレンジ色で、当時、暖色系を使うっていうのは考えられなかった。どっちかというと寒色系のグレーだったり、ブルーだったりしたんです。そんななかあのオレンジ色の袋は、本を買って帰るお客さんがそのまま広告塔になってくれたんですね。画期的だったと思います。
矢部
なんかあの色にするのに他のお店で使っていない色というのを随分時間をかけて選んだらしい。それでやっとオープンしたんだけど、渋谷店を作るときも、渋谷店を開けてからもパルコ本体からこういうお店にしろっていうのは一切言われなかった。そんなことをいう会社じゃなかったね、パルコは。
藤本
MDって言葉がまだなかったですもんね。
矢部
なかった、なかった。それにあの当時、本屋といえばみんな紀伊國屋みたいなものを想像しているだけでね。
藤本
そうですね。基本的に本屋を集客装置として考えているわけだから、本屋のなかのことはそれはそっちで作ってみたいな。
矢部
だからみんな好きにやれたんだ。
藤本
当時、パルコに勤めている人たちは、来るお客さんとは違って興味のある対象がビジネス書だったり、人文書だったりしたんですけど、来ているお客さんは若いファッションやカルチャーに興味がある。だから求める本屋のかたちがずれていた。お客さんのためにと思って特化していくと、パルコの人たちは、何で俺の欲しい本がないんだよ、みたいな話になる。それで担当者が慌てるというのはありましたね。
矢部
そういうのはよくあった。
藤本
あの頃は、渋谷にブックファーストもなく、青山ブックセンター本店もなく、とにかく商圏が広かった。青山とか表参道からもお客さんが来るし、NHKの方からも来る。渋谷駅からも当然来るし。
矢部
書店は、旭屋、紀伊國屋、大盛堂、三省堂はあった。パルコパート1の地下にある、今のリブロ渋谷店が私たちが働いていたP-BC渋谷店だったんだけど、当時は西武ロフトの中に別のリブロ渋谷店があった。95年辺りに撤退したのかな?
藤本
リブロ渋谷店はいいお店でしたね。僕が一番覚えているのは文庫が出版社順じゃなくて、著者名のアイウエオ順で、探すのにとても便利だったんです。詩の本を扱っていた「ぽるとぱろうる」も併設されてたし、好きなお店でした。
矢部
P-BC渋谷店が出店するときにいろいろ周りの本屋さんを見たんだけど、本屋のセレクトショップなんて発想がなかったから、50坪なら50坪なりの、300坪なら300坪なりの総合書店を作らなきゃいけないって感じだった。だから最初に言ったように学習参考書を外す以外は、総合書店を出すことしか考えてなかったと思う。
藤本
オープン時の品揃えで驚いたのが全集ですよ。かなりありましたよね。
矢部
ドーンと入れちゃった。
藤本
一見ショタレっぽいもの、随分ありましたね(笑)。
矢部
あとから結構言われたよ。ここにしかない本がいっぱいあったって(笑)。
藤本
僕なんかは割と喜んで買ったくちです。
矢部
まあ、そういうのはあったけど、普通のお店だったよ。しかもオープン当初は、毎日新刊が一箱あるかないかで、全然本も入らないし、しょぼしょぼ。どこまで辛抱するかってところもあったんだけど。マーケットとしてはポテンシャルがあったわけだからね。それがいつ頃からか、いろんな出版社が来て「P-BC渋谷店が一番売っている」と言われる本が出だした。
藤本
言われて気付くくらいだから、それが狙いじゃなくて、普通にお客さんを見て、関連書を見て、売れたからそれを発注してという日々の積み重ねだったんですよね。吉祥寺と一緒で。

(つづく 次回更新は1月29日)

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