コラム / 高橋良平

本格宇宙小説作家第一号・瀬川昌男さんのこと

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 思うところあって、新聞をとるのをやめたのは、吉祥寺に住んでいたころだから、もう四半世紀も前になる。新聞を読まないからといって、とりあえず普段の暮らしで困ることはない。ただし、問題がひとつ。それは、訃報だ。弔問する間柄の人の場合は、知人の誰かから必ず連絡がはいるから大丈夫(?)なんだけれど、そうでないと、ずいぶん長い間、知らずにいることが多い。瀬川昌男さんが亡くなったことも、毎月送っていただいている"東海SFの会"の会報〈ペーパームーン〉連載の川瀬広保さんのエッセイを読むまで、ひと月以上知らずにいた。びっくりして、図書館で新聞をくってみる。
 2011年7月16日(土曜日)付け朝刊各紙の訃報記事は----

◎〈朝日新聞〉瀬川昌男さん(せがわ・まさお=科学解説者、作家)10日、急性肺炎で死去、80歳。葬儀は近親者で営まれた。喪主は妻忍(しのぶ)さん。/「白鳥座61番星」など、星や宇宙をテーマにした児童文学を多く手がけた。
◎〈毎日新聞〉瀬川昌男さん80歳(せがわ・まさお=作家、科学解説者)10日、急性肺炎のため死去。葬儀は近親者で行った。喪主は妻忍(しのぶ)さん。/著書に「白鳥座61番星」「星と星座の話」「魂は生きている」など。
◎〈読売新聞〉瀬川昌男さん80歳(せがわ・まさお=SF作家)10日、急性肺炎で死去。告別式は近親者で済ませた。喪主は妻、忍さん。/「白鳥座61番星」「星座物語」など、子ども向けSF小説や科学解説書を手がけた。
◎〈日本経済新聞〉瀬川昌男氏(せがわ・まさお=SF作家)10日、急性肺炎のため死去、80歳。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻、忍さん。/子供向きSF小説や科学解説書を多数手がけた。著書に「白鳥座61番星」「星と宇宙のなぞ」など。

 ----と、どれも似たりよったり。瀬川さん自身が書かれた「著者略歴」では、

《二四二六四九九ユリウス日、すなわち一九三一年六月六日、地球のかたすみ東京で生まれた。
 おさないころのある日、ふとふりあおいだ宵の明星の真珠色の光に、なぜかつよく心をひかれたのが、そもそも星への愛のはじめだが、科学的な目をむけるようになったのは、小学三、四年以後のこと。そのころから天体観測その他科学実験一般にこりだし、いまだにこりつづけている。
 一九五〇年、東京教育大学心理学科に入学、脳波研究で卒業論文を書いたが、卒業後は、科学解説と少年少女むき科学小説を書きはじめた。
 著書は、「科学の教室」「火星にさく花」。その他多くの新聞雑誌に児童むき科学小説を執筆、「宇宙人類ノヴァ」を連続ドラマとしてラジオの電波にのせた。「白鳥座61番星」は一九五九年に毎日中学生新聞に連載した。/現在、日本宇宙旅行協会理事、日本脳波学会会員、日本天文学会会員》『白鳥座61番星』(東都書房/1960年7月刊)

 もうお気づきの人もいるかも、しれない。そう、奇しくも、小松左京さんと同じ年に生まれ、同じ月に亡くなられたのだ。ただし、作家としてのデビューは瀬川さんのほうが数年早く、長篇第一作『火星にさく花』が刊行されたのは、1956年12月のこと。講談社の[少年少女世界科学冒険全集]の15巻目として発売されたが、英米ソの翻訳SF中心の全35巻中、唯一の日本作家による創作である。

 そのデビュー作のまえがきで、25歳の瀬川さんは"宇宙科学小説"にかける意気込みを語っている。

《(前略)いまや、米国でもソ連でも、その他世界の各国で、少年少女のための宇宙科学小説が、さかんに書かれ、愛読されるよういなりました。しかし、ざんねんなことに、日本には、いままで、正しい科学的基礎のうえにたった科学小説が、ほとんどなかったようです。
 そこで、わたしは、たんに荒唐無稽な冒険のみに終始するものではない、最新の科学知識のうえにたち、未来に実現の可能性をもそなえたような科学小説を書きたいと思いました。わたしの、幼いときからの、はてしなくひろがる宇宙へのゆめが、やがてこの宇宙科学小説という形に、実をむすんだのです。

「火星にさく花」は、一九五六年の、ちょうど火星の大接近を前に、同年四月から毎日小学生新聞紙上に連載したものを、さらに、高学年のかたにもむくように、科学知識をより豊富に加えて新しく書きあらため、ひとつにまとめたものです。
 この物語を書くまえに、わたしは、数ヵ月をついやして、日ごろ集めておいた資料を読みなおしたり、ごく概算ながらも、この物語の展開される二〇三四、五年という時代の、各惑星の位置、宇宙船の航路軌道、なかにでてくる、ある天文学的大事業の基礎などについての計算をしたりしました。気圧の問題については、かんたんな実験もおこなってみました。
 また、この物語のなかには、あまりに奇想天外なこともでてくるので、はたしてそれらのことは、どこまでが科学的にたしかで、どこからが、小説としての誇張なのだろう? と、まゆにつばをつけてみられるかたもあることと思います。そこで、巻末に、この物語のなかにでてくるいくつかの事物について、その空想と科学的事実の緩衝地帯を、解説として明示しておきました。(中略)ゆたかな自由奔放な空想と、科学的な正しさとが、同様に必要な科学小説では、なるべく、読者に、空想と事実を混同させることのないよう、率直な解説によって、そこにもちいられた科学と空想とを明示したいものだと、わたしは思うのです。

 さて、この物語のなかで、しげる少年は、光波ロケットにのって火星へいきます。この物語を読みながら、みなさんは、自分もじっさいに火星旅行をしたような気持になるでしょう。そして、これはけっして、空想の物語とわらいさらされるようなものではないのです。おそらく二十一世紀ともなれば、人類は、宇宙に、地球以外の天体にまで活躍の舞台をひろげて、宇宙間を自由にとびまわっているにちがいありません。そして、その時代には、地球のなかで、国と国とがたがいにあらそうようなばかげたこともなくなって、平和な時代がきているでしょう。
 科学小説を読まれて、みなさんのゆめが、この小さな地球だけにとどまらず、さらにさらに大きく、宇宙へむかってのびていくことは、とりもなおさず、つぎの時代を、あかるく平和なものにしていくのに役だつことを、わたしは信じております。

 一九五六年十二月                        瀬川昌男》

 いくつか出た書評でも、おおむね好評で迎えられた。たとえば、

《子どものための、よき冒険物語がほしいと、わたしはかねてから考えていた。怪奇心をそえるような絵をそえて、いたずらに子どもの心を刺激する。そんなものの横行を追いはらう意味でも、よい物語がほしいと思っていた。冒険物語というジャンルの一つである空想科学小説も、子どもたちのためには、ぜひあってよいのだがと思い、その移植に骨を折ってみた。が、あえて移植にたよらなくたっていいくらいの作品が、とうとう生まれたのである。瀬川昌男君の「火星にさく花」がそれなのだ。

(中略)すべての事件を、少年の目と心を通してえがき出しているところに、この作品のよさがある。そして、現代科学で考えられるかぎりの事実をもとにして、その説明を随所に適当にはめこんでいる。作者はまだ若いし、小説作法にも慣れていないから、人間のあつかいかたが単純であり、事実の説明と描写が、十分に融合していないきらいがあるが、人間の夢である科学的可能性の無限の拡大という理想が、みずみずしく全篇をつらぬいていて、少年読者をその夢の中にひきずりこむ力をもち、作品の小説的な欠点をおぎなってあまりある。

 この若い作者の駆りたてている夢----可能性拡大の実現への夢は、まことに健康であって、ともすればこの種の作品がサスペンス小説に堕するのを、よくひきとめている。オーソドックスの空想科学小説としては、この「火星にさく花」が、わが国さいしょのものである。しかも、なかなか成功しているのである。

 子どもの目と心を通して人生と社会の真実をとらえるリアリズム文学を、わたしどもは強固にそだてあげねばならないが、そのかたわら、可能性への夢をも健康な方向にみちびき、それをそだてあげたいと、わたしは考えている。瀬川君はその方向への一里塚を立ててくれたのだ----といってよいであろう。》那須辰造〈日本児童文学〉1957年4月号

 そのころ、星新一さん、斎藤守弘さんら、日本空飛ぶ円盤研究会の有志に声をかけ、"空想科学小説"の同人誌を創刊しようとしていた柴野拓美さんは、『火星にさく花』を一読、感激した柴野さんは、さっそくファンレターを送り、その中で同人に参加してくれるよう乞う言葉も書き添えた。そう、瀬川さんは〈宇宙塵〉の創刊メンバーだった。
 訃報を伝えた各紙が代表作にあげている第2長篇『白鳥座61番星』の書評には、〈新刊ニュース〉1960年8月号の「本格的な未来小説」がある。

《千年後のわれわれの生活は、どう変っているだろうか。光速に近い宇宙船が恒星間をとび、数々の星に地球人が移り住んでいる時代......、たなばたの二つの星を出発した宇宙船は、奇しくも同じかささぎの橋近い白鳥座61番星をめざしている。この宇宙船にのりくんだ少年と少女の冒険と詩情を美しく描いた物語で、荒唐無稽な物語ではなく科学者であり作家である著者が綿密な計算の上にくみたてた本格的な未来小説で、未知の世界への驚異と共に、一面現代社会への反省をも含んで、身近な感動をたたえて興味しんしんの物語である。
 文芸評論家で科学小説通の荒正人氏も「作者の文明批評もさることながら、そのヴィジョンは強い現実感に裏うちされている。おもしろいだけでなく、人類の希望について具体的に教えられる。わたくしがこれまでに読んできた内外のサイエンス・フィクションのなかで群をぬいてすぐれている」と激賞している。(A5判・二六〇円・東都書房)》

 このころ(正確には1959年12月)、早川書房から創刊された〈SーFマガジン〉からやがて、"第一世代"と呼ばれる作家たちがデビューしてゆくが、偏見や誤解多き草創期のことゆえに、SFのマーケットは限られていたため、彼らはSFアニメの脚本や、少年誌、学習誌に活路を見いだしてゆく。

 その最初の収穫が、〈SーFマガジン〉編集長だった福島正実企画・解説の[ジュニア・SF](盛光社)で、矢野徹『新世界遊撃隊』、光瀬龍『夕ばえ作戦』、中尾明『黒の放射線』、福島正実『リュイテン太陽』、筒井康隆『時をかける少女』、眉村卓『なぞの転校生』、豊田有恒『時間砲計画』、北川幸比古『すばらしい超能力時代』、内田庶『人類のあけぼの号』、小松左京『見えないものの影』の全10巻が、1967年3月に一斉発売された。これを端緒に、70年代の初めにかけて、翻訳(リライトも含む)・創作のジュヴナイルSFの出版ブームが訪れる。それらの叢書が、少年少女のSFファンを育てた功績は大きい。
 1968年12月、盛光社のシリーズに対抗するように、金の星社から[少年少女21世紀のSF]全10巻がスタートする(詳細は書誌参照のこと)。シリーズの企画・解説は瀬川さんだった。瀬川さんをはじめ、宮崎惇、石川英輔、小隅黎(柴野拓美)、畑正憲、今日泊亜蘭、加納一郎、草川隆という顔ぶれの執筆メンバーで、両シリーズが別の人脈で成り立っていることがわかる。〈SーFマガジン〉(というか、福島さんが創設した少年文芸作家クラブ)vs〈宇宙塵〉なる対立構図が浮かぶが、少なくとも、SFの普及に邁進する福島さんの構想の中に、彼らに対する拘りがあったのは、確かなようだ。
 ともあれ、当時、子どもたちに大歓迎されたジュヴナイルSFは、伝統的な児童文学関係者から、やっかみ半分で白眼視されており、瀬川さんはこんな発言をしている。

《司会 瀬川さんは、どうしてSFを書かれるようになったのですか。

 瀬川 私は科学解説を書いていたわけです。そうすると、解説をする前に、まず子どもたちに科学への興味をもってもらう必要がある。科学というのは、こんなにおもしろいものなんだ、という関心を示してもらわなくてはならない。そのためにはSFは非常に有効な手段ではなかろうか。その辺が動機になっているわけです。
 私が、自分の創作の上で、特に科学性という面を重く見て来たのもそのためです。しかし、それだからと言って、たとえば、人間的な葛藤とか、あるいは、政治社会的な面を、無視したり軽視したりしているということはけっしてない。偏狭な科学主義者だときめつける人もあるようですが、変な話です。もしそうなら、私が科学小説など書こうと思うはずもありません。だいいち、一読者の立場で言えば、SFの中でもけっこうファンタスティックなものも好きですしね。案外、私の心の奥にある幻想趣味的な傾向が、私を、科学解説からSFへと向かわせたのかもしれない。(中略)

 瀬川 最後に、私がいちばん言いたいことは、大衆児童文芸に従事している人たちと、児童文学者の人たちとの間の交流の問題です。これは、もっともっと盛んにしなけらばいけない。いまここで、子どものSFはどういうものであってほしいか、といった注文を出してみても、これはこの場かぎりで、雑誌に載っただけで消えてしまう。そういう注文は出し続けなければいけないのではないか。ただ一方的に注文を出すというよりは、交流を深めることによって、お互いに相手からなにかを学び取り、子どものためのよい作品を生み出して行くことができるのではないかと思うわけです。どうも今までは、そういう交流がなさ過ぎた。たまに接触があっても、それはごく狭い伝送路による、ひずみの多い、雑音までともなったコミュニケイションだったのではないか。私の思い過ごしなら幸いですが、もしそうだとすると、そんな接触は、かえって誤解や偏見を増し、お互いの間のみぞを深めるばかりで、何のプラスにもならない。もっとさかんな交流があってほしい。具体的に言えば、協会の理事の方々なり編集局の方なりが、直接、たとえば、大衆児童文芸のグループを代表するような方々と、何度でも、ひざを交えて話し合ってみるとか、あるいは、適当なチャンスをとらえては、しばしばシンポジウムを行うとかすればいい。以前、一度そういう空気が盛り上がったことがあるのに、どうしたことか、両方で尻込みしたような格好で立消えになってしまったのは非常に残念に思う。はじめから喧嘩腰ではだめですよ。あまり性急に結論を出そうとしないで、ゆっくりと、お互いの誤解をなくして行く。そういう気長さこそが、いちばん大切だと思いますね。》「座談会 SFと児童文学」〈日本児童文学〉特集「SF児童文学」1968年3月号

 ところで、晩年になって、コナン・ドイルをはじめ、よくある科学主義から心霊主義への転向ではないだろうが、瀬川さんは気がかりな言葉を残している。

《ところでわたしは、これまで子ども向けには、宇宙・天文を中心とした、あくまでも自然科学的な立場での解説書を書いてきました。それがいまになって、なぜ突然、一見科学と相反するような「おばけ」の本を書いたのでしょうか。
 わたしが実際に、不思議なできごとを体験したというのも理由の一つですが、最大の理由は、別にあります。それは、科学技術がめざましい発達を続ける今日、科学の持つ「危うさ」が、次第にあわらになってきたためです。
 科学の進歩は、たしかにこの国を繁栄させています。しかしその繁栄に反比例して、日本の美しい自然が荒廃しつつあるのもまた事実です。
 これは日本に限りません。世界的に進行しつつある環境汚染は、やがて、わたしたちを乗せたこの地球そのものを破壊しかねない勢いです。
 この点、祖霊(祖先たちの霊)や自然霊(山や水や木などの自然の霊)をおそれ、身のほどを知って暮らしてきたわたしたちの祖先は、わたしたちより賢明だったのではないでしょうか。
 わたしは、なによりもまず子どもたちに、大好きな「おばけ」とのおつきあいを手始めに、こうした祖先の人びとが持っていた謙虚な心を、とりもどしてもらいたいと願っているのです》『おばけめぐり』(金の星社/2002年6月刊)「あとがき」より

 ......ぼくが瀬川さんの作品、『火星にさく花』『白鳥座61番星』、そして第三長篇の『地球SOS』を読んだのは、そんなに昔のことではない。〈本の雑誌〉で「戦後日本SF出版史」を再開してまもなく、畏友・池田憲章に押し付けられた(いやいや、感謝しております)段ボール箱2箱分の参考資料の中に、それらがあったからだ。
 やや上品で古めかしい表現はあるものの、いま読んでも、その面白さに太鼓判を押したくなる出来だ。東京創元社のKくんに再刊したら、とそれとなく言ってみたが、さして興味を示さなかったのは残念至極。世の中、ままならぬ。
 されど、瀬川昌男という我が国で初めて本格宇宙小説を手がけたSF作家が、歴史に忘れられて、よいわけはない。その業績を称え、ここに謹んでご冥福をお祈りします。合掌。

■瀬川昌男 書誌(未完)
http://www.webdoku.jp/shoten/special/2011segawa.html

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