コラム / 高橋良平

ポケミス狩り その9
「チャンドラーの巻」

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装幀・勝呂 忠

 初めて読んだチャンドラーの作品は『長いお別れ』だった。大学1年の夏休み、なんとなく入会したふたつのサークルのうち、SF研究会のほうは、市ヶ谷の東京洋服会館で開く、その夏の"SFフェスティヴァル"の主催者側にまわっていたので、なんのかんのと使い走りで忙しいうえ、SF研のS君に誘われるまま、単位に無関係な法学部の桐谷ゼミに参加していたため、ドストエフスキーやサルトル、丸山健二らの課題図書を精読しなければならなかったが、短い帰省のあいだ、読む本を切らしてしまい、例によって下の弟の本棚に並んだ少しのポケミスの中から引っこ抜いた1冊が、『長いお別れ』だった。

 まったく予備知識もなく読みはじめ、何章か読むうちに、「なんじゃ、こりゃあ」と頭の中で疑問符がいっぱい浮かぶ......。

 私立探偵小説を読みなれてはいなかったが、そこはそれ、外国番組が字幕放送時代からのテレビ小僧で、《サンセット77》《ピーター・ガン》《探偵マイケル》《マイク・ハマー》《サーフサイド6》《ハワイアン・アイ》《バークにまかせろ》《ハニーにおまかせ》などの番組(残念ながら《旋風児マーロウ》は記憶にない)も欠かさず見ていたから、私立探偵モノのパターンに通じているつもりでいた。

 ところが、『長いお別れ』は、型破りだった。ポオのいう、後ろから書く小説ではなかった。謎あるいは事件を解決する過程を綿密に計算するのがミステリ作法とするならば、およそミステリらしくなかった。プロットはよれよれ、行き当たりばったりの展開。そのせいか、こちらも、だんだん、犯人捜し、謎とき自体に興味をなくしてゆく。話のすじを追うのではなく、探偵が出会う人物たち、彼の話しぶり、彼の反応をいつしか楽しんでいた。ゆっくりページをめくり、3日ほどかけて読みおえたのだった。

 巻末の都筑道夫解説「チャンドラーおぼえがき」に、〈チャンドラーの作品は、ひとを酔わせる不思議なものを持っていて、それに酔ったものには、批判の余地がない。そうした魅力を強烈に持っている探偵作家は、ほかにちょっと思いあたらないのである〉とあるように、ぼくもたちまち、酔ってしまった。

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装幀・勝呂 忠

 創元推理文庫の『大いなる眠り』と『かわいい女』はすぐ手に入り、ポケミスの『さらば愛しき女よ』も古本でゲットしたが、『プレイバック』がなかなか見つからない。

 なにしろ、前述の都筑さんの解説で、〈最後にちょっと愉快なニュースをお伝えしておこう。ことしの新作『録音再生機』の最後で、フィリップ・マーロウは、本篇の最後でいったんふったリンダ・ローリングと、どうやら結婚しそうな模様である〉とあったから、読みたくて、たまらない。ようやく、『プレイバック』を収録した[世界ミステリ全集]のチャンドラー篇が出たのでさっそく購入し、渇を癒したのだった。

 小説作品はもちろん、『レイモンド・チャンドラー語る』まで読み、The Library of America叢書に収録された、フランク・マクシェーンの注釈つきのStories & Early NovelsとLater Novels & Other Writings の2巻本(1995年刊行の79巻と80巻で、同叢書では初のミステリ作家を収録)を海外注文するほど、一時は凝っていた。

 でも、今世紀に入ったころから、いつしか熱は冷めてしまい、したがって、村上春樹の新訳版に一冊も目を通さないままでいる。

 翻訳といえば、一種の浪花節の清水俊二訳に定評(ポケミスの巻末目録では当初、『長いお別れ』の訳者に木原孝一さんが予定されていたのは、ご存じ?)があったが、田中小実昌さんの一人称が"おれ"の『湖中の女』も『高い窓』も、ぜんぜん抵抗なかったし、また、エリオット・グールドがマーロウを演じた、リー・ブラケット脚本、ロバート・アルトマン監督の《ロング・グッドバイ》(73年)も、チャンドラー・ファンには評判がわるいらしいが、渋谷の全線座だったかの2本立てで観て、現代的な解釈と趣向に関心したクチだから、熱烈なファンの人とは話が合わないかもしれない。

 それにしても面白いのは、チャンドラー作品の翻訳史だ。そのあたり、詳しくは小鷹さんの『私のハードボイルド 固茹で玉子の戦後史』(早川書房・06年11月刊)をひもといていただくとして、チャンドラーの日本デビューは華々しかった。

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 双葉十三郎や江戸川乱歩のエッセイや評論で名のみ知られていたにしろ、ハードボイルド派(行動派探偵小説)の始祖ハメットをさしおき、いきなり、長篇3作が一挙に翻訳されたのだ。〈別冊宝石〉がと"世界探偵小説名作選"題して、翻訳特集号を出したのは第10号(奥付1950年8月10日発行)で、その第1集は"ディクソン・カア傑作特集"。つづく第11号(50年10月10日発行)の第2集が"R・チャンドラア傑作特集"で、"翻訳権独占読切長篇"の『聖林殺人事件』(清水俊二訳)『ハイ・ウィンドォ』(萩明二訳)『湖中の女』(二宮佳景訳)が載った。

 編輯後記には、
〈★讀書シーズンのさなかに『チヤンドラア傑作特集』をお送りします。(中略)チヤンドラアの魅力は、ハード・ボイルド派の、スリラア映畫を見るやうな、ダイナミツクなスピード感そのものといつた味でせう。
 ★チヤンドラアは、アメリカを代表する一方の雄でせう。ハリウツドといふ映畫都市で象徴される現代アメリカ文明の生んだ、最も近代的な作家であり、ヘミングウエイ、ドス・パソス、フオークナアなどにも匹敵すべき文學者ともいえるかと思ひます。つまり單なる探偵作家でなく、アンドレ・ジイドが激賞したダシエル・ハメツトの系統に屬する巨匠と云えませう。さう云つた意味で、探偵小説フアンは勿論のこと、一般讀者の方にも是非讀んでいたゞきたいと存じます。ともかく、一度讀み出したら、絶對に最後まで引ずらずにはおかないスリルとスピードとモダニズムの味をかみしめていたゞきたいと思ひます。
 ★チヤンドラアの作品は殆ど全部映畫化されてゐます。日本で紹介されたのは例の一人稱映畫『湖中の女』がありました。★本號の『聖林殺人事件』は、四九年度の作品で、ハリウツドを解剖した最新作です。
 ★尚頁數の關係で、三篇とも多少の取捨をしましたことを御了承下さい。(T)〉

 余談になるが、巻頭の乱歩の筆になるガイド「チャンドラアについて」の文章が、ポケミスのチャンドラー作品1作目『さらば愛しき女よ』(56年3月刊)の解説、「チャンドラーについて」(編集部・記)に、少しのアレンジで流用されているのは、なんだか不思議。何度も同じような文章を書くのに嫌気がさした乱歩が、適当にやってよ、と編集部(田中潤司?)にまるなげしたんだろうか。

 この"チャンドラア傑作特集"が好評だったのか、〈別冊宝石〉13号の"世界探偵小説名作選"第4集"R・チャンドラア P・ワイルド特集"(51年8月10日発行)に、『大なる眠り』(双葉十三郎訳)が掲載され、〈宝石〉本誌のほうも、同年10月号から翌年3月号まで『さらば愛しき女よ』(清水俊二訳)を連載、この時点で出ていた長篇がすべて翻訳されたのだった。

 そして、ポケミスが版権を取得していた『長いお別れ』(原著1954年刊)が、遅れに遅れて出たのが1958年10月のことで、〈ハードボイルド探偵小説の王座を占めるチャンドラーが、五年間の沈黙を破って発表した、巨匠畢生の傑作〉、この"アメリカ探偵クラブ賞"受賞作が、チャンドラー人気を不動のものにした。


[資料篇]"ポケミス"刊行順リスト#7(奥付準拠)
1956(昭和31)年・下半期
  7月31日(HPB 264)『妖女の隠れ家』J・D・カー(西田政治訳)
  7月31日(HPB 265)『茶色の服の男』A・クリスティー(桑原千恵子訳)
  7月31日(HPB 269)『判事への花束』M・アリンガム(鈴木幸夫訳)
  8月15日(HPB 266)『びっこのカナリヤ』E・S・ガードナー(阿部主計訳)
  8月15日(HPB 267)『幻想と怪奇 ①』早川書房編集部編
  8月15日(HPB 270)『伯母の死』C・H・B・キッチン(宇野利泰訳)
  8月31日(HPB 268)『幻想と怪奇 ②』早川書房編集部編
  8月31日(HPB 271)『囁く影』J・D・カー(西田政治訳)
  9月15日(HPB 233)『疑われざる者』C・アームストロング(衣更着信訳)
  9月30日(HPB 203)『ブラウン神父の懐疑』チェスタートン(村崎敏郎訳)
  9月30日(HPB 273)『片眼の証人』E・S・ガードナー(尾坂力訳)
  9月30日(HPB 274)『緋文字』E・クイーン(青田勝訳)
  9月30日(HPB 275)『なげやりな人魚』E・S・ガードナー(妹尾韶夫訳)
  9月30日(HPB 276)『ドグラ・マグラ』夢野久作
  10月15日(HPB 272)『ドラゴン殺人事件』ヴァン・ダイン(宇野利泰訳)
  10月15日(HPB 278)『死者の中から』ボアロー&ナルスジャック(日影丈吉訳)
  10月31日(HPB 279)『狙った獣』M・ミラー(文村潤訳)
  10月31日(HPB 280)『バクダッドの秘密』A・クリスティー(赤嶺彌生訳)
  10月31日(HPB 281)『万引女の靴』E・S・ガードナー(加藤衛訳)
  11月15日(HPB 277)『犠牲者は誰だ』R・マクドナルド(中田耕治訳)
  11月15日(HPB 282)『ヒッコリー・ロードの殺人』A・クリスティー(高橋豊訳)
  11月15日(HPB 284)『ためらう女』E・S・ガードナー(三樹青生訳)
  11月30日(HPB 285)『嘲笑うゴリラ』E・S・ガードナー(峯岸久訳)
  11月30日(HPB 289)『レスター・リースの冒険』E・S・ガードナー(妹尾韶夫訳)
  11月30日(HPB 291)『時計は十三を打つ』H・ブリーン(西田政治訳)
  11月30日(HPB 292)『消えた看護婦』E・S・ガードナー(尾坂力訳)
  12月15日(HPB 294)『医者よ自分を癒せ』E・フィルポッツ(宇野利泰訳)
  12月15日(HPB 296)『睡眠口座』C・ウールリッチ(妹尾韶夫・他訳)
  12月15日(HPB 297)『怪物』H・ヘクスト(宇野利泰訳)
  12月31日(HPB 259)『怪しい花婿』E・S・ガードナー(田中融二訳)
  12月31日(HPB 283)『消えた玩具屋』E・クリスピン(大久保康雄訳)
  12月31日(HPB 286)『葬儀を終えて』A・クリスティー(加島祥造訳)
  12月31日(HPB 288)『リコ兄弟』G・シムノン(秘田余四郎訳)
  12月31日(HPB 290)『書斎の死体』A・クリスティー(高橋豊訳)
  12月31日(HPB 295)『間にあった殺人』E・フェラーズ(橋本福夫訳)

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