『雑品屋セイゴオ』松岡正剛

●今回の書評担当者●文教堂書店青戸店 青柳将人

 白地に緑の枠が縁どられた表カバーには、写し鏡の時計盤をモチーフにしたロゴと落款の押された書名。カバーの三分の一を覆ってしまう程の太い帯には「フェチあり〼。」という意味深な言葉。そのキャッチコピーの横に視線をずらせば、「月球儀、ノート、大福、赤チン、X線写真...」といった単語が呪文のように羅列されている。カバーの表裏には帯からはみ出した歯ブラシや花札、スペースシャトル等の、こちらもまた一貫性のないイラストが。どうにも気になり帯を外してみると、カタツムリ、ホチキスの針、お尻を出した着物姿の女性といった有象無象が姿を現す。

 さて、この一風変わった書物は一体どんな内容なのかと、そっと中身を開いて目次を覗けば、帯にも書かれていた一貫性のない単語が目次の項目欄に刻まれている。さらにそれぞれのページには、見開きでその項目にまつわる文章とイラストがなんとも賑やかに出迎えてくれるではないか。

 著者は巻末にて、フェティッシュはシャルル・ド・ブロスが造語した呪物信仰論にもとづく「もの」に託した観念力。フェチは「もの」に何かの代替力を感じて嗜癖することだと説明した上でこう語っている。

「雑品屋セイゴオの商品オブジェはぼくの如何んともしがたいフェチにもとづいて並んでいる。だから、それらについての文章も少しフェティッシュなエクリチュールになっている。(中略)これらは、フェッチュとフェティッシュの「疑」(もどき)なのである」

 帯に書かれていた「フェチ」という言葉の意味を改めて考えながら本書を読み進めてみると、著者の頭の中に無数に点在している箱庭から厳選されて開け放たれた、過去から現在へと繋げる疑。そして著者の今を構成するファクターだという事が理解出来るだろう。

 長い前置きをしてしまったが、本書「雑品屋セイゴオ」に書かれている言葉に姿を変えた雑品達には、様々な分野に造詣の深い著者ならではのエッセンスが存分に凝縮して詰め込まれており、その横断して語られる文章がバラエティーに富んでいてめちゃめちゃ面白いのだ。

 例えば誰にでも馴染みのある「ノート」の項では、コクヨの名前の由来や、様々なノートの形態を紹介し、中盤からはノートのルーツを遡り、「書く」という事について、書物と長く人生を共にしてきた著者だからこそ語れる、広義に掘り下げられた文章が展開されていく。

 かと思えば、「万年筆」の項では、幼い頃に友人と自身の性器に万年筆のキャップを嵌めてはポン!と抜き取る遊びをしていたというどうしようもないエピソードを面白可笑しく語り、「大福」の項目では大好物の大福の美味しさを語った末に、いちご大福やクリーム大福は邪道で男が頬張るものではないと辛口に一刀両断する。このインテリジェンスとユーモアの調和が、「松岡正剛」という人の大きな魅力の一つなのだろう。

 あぁ、読み終わった後も、パラパラと頁をめくって読みながしても、ただ眺めているだけでも、何でこんなに面白いんだろうか。きっとこんな体験、電子書籍では味わえない。製本された書籍だからこそ楽しめる醍醐味が凝縮されたような本書を、何のフィルターもかける事なく、老若男女問わず気軽に読んでもらいたい。はっきり言って、本書の魅力は実際に手に取ってもらわなきゃ十分に伝わらないぞ。

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文教堂書店青戸店 青柳将人
文教堂書店青戸店 青柳将人
1983年千葉県生まれ。高校時代は地元の美学校、専門予備校でデッサン、デザインを勉強していたが、途中で映画、実験映像の世界に魅力を感じて、高校卒業後は映画学校を経て映像研究所へと進む。その後、文教堂書店に入社し、王子台店、ユーカリが丘店を経て現在青戸店にて文芸、文庫、新書、人文書、理工書、コミック等のジャンルを担当している。専門学校時代は服飾学校やミュージシャン志望の友人達と映画や映像を制作してばかりいたので、この業界に入る前は音楽や映画、絵、服飾の事で頭の中がいっぱいでした。