『眠りの航路』呉明益

●今回の書評担当者●ジュンク堂書店池袋本店 小海裕美

  • 眠りの航路 (エクス・リブリス)
  • 『眠りの航路 (エクス・リブリス)』
    呉明益,倉本 知明
    白水社
    2,640円(税込)
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 一冊の本を読んだことをきっかけに、様々な読書の経験に繋がることがある。

 翻訳文学の場合、一冊、また一冊と読書を重ねると、過去の読書と繋がる瞬間があって、自分なりの世界地図が脳内に作成される。行ったことのない国なのに、自分の記憶の中にはその国の誰かの人生の記憶が刻まれる。不思議だ。

 呉明益の『眠りの航路』(白水社)もそんな一冊だ。

 睡眠時間が一定の間隔で後ろにずれていく症状に悩まされるライターの「ぼく」とその父の記憶をメインとし、様々な人々の記憶の断片が入り混じり、時間も前後しながら小説は進んでゆく。
「ぼく」の幼少のころの記憶はどこか懐かしい。『歩道橋の魔術師』にも通じるノスタルジックなものだ。しかし、「ぼく」の父親は、太平洋戦争末期に神奈川県の高座海軍工廠で少年工として渡日し、戦後は台北の中華商場で修理工として生活を送った。

「ぼく」は睡眠障害の治療のために訪日し、そこで父の過去を掘り起こす。

 父は、太平洋戦争時、日本の軍人の指導の下、それまでの名前から三郎という日本名に改名していた。同じく招集された少年たちは、もとの名前の漢字をいかしたりしつつ日本名に改名し、日本語で会話をして日本人として行動するよう求められる。純粋な少年たちは積極的にそれを受け入れ「日本人」になろうとするが、姿かたちは同じに見えるのに、出身国による扱いの違いや、完全に日本人として受け入れられないことを感じ取る。彼らの曇りない眼は途中で会った朝鮮人にも向けられる。小説では三郎の記憶として善悪は判断されていないが、はっと胸をつかれた。

 戦後、少年たちは国に送り返され、三郎は過去について固く口を閉ざす。「ぼく」は、過去について一切語らない父と断絶していたが、睡眠障害をきっかけに日本へ渡り、父の足跡を追いかける。

 三郎の記憶は、私の知らなかった日本の姿でもあった。三郎は、戦争によって子供時代が奪われたことを悲しむ。私は太平洋戦争が日本の多くの子どもの子ども時代を奪ったことは知っていても、三郎の様な子どもの子ども時代を奪ったことについては無自覚だったと思う。一歩視点をずらすと同じ事でも見えてくるものが違うと気付かされる。

 呉明益の小説は、ノスタルジックなだけでなく自然や環境について書いていて、静謐なのにファンタジック。台湾には少数民族の文化があることなど、様々に豊かな国であることを教えてくれる。『複眼人』もおすすめだ。

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ジュンク堂書店池袋本店 小海裕美
ジュンク堂書店池袋本店 小海裕美
東京生まれ。2001年ジュンク堂書店に入社。自分は読書好きだと思っていたが、上司に読書の手引きをして貰い、読んでない本の多さに愕然とする。以来読書傾向でも自分探し中。この夏文芸書から理工書担当へ異動し、更に「本」の多種多様さを実感する日々。