『あなたの名』小池水音

●今回の書評担当者●駿河屋 名古屋栄店 中川皐貴

  • あなたの名
  • 『あなたの名』
    小池 水音
    新潮社
    2,145円(税込)
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 AIが日常生活に浸透しつつある。あいまいなものの検索に活用したり、意見を聞いてみたり。是非はありますが、真夜中でも、何時間でも嫌な顔一つせず話を聞いてくれる、ということもありカウンセリングのように利用される例もあるそうだ。かく言う私も、メールの添削に使ったり、主にPC関係でわからないことがあれば聞いており、ちゃんと答えてくれるので便利になったなあと感じる。友だちからは仕事でも使っているという話も聞く。

 今回紹介する『あなたの名』は、妊娠中の娘に頼まれて、余命いくばくかの母が、AIの専門業者に依頼をして母を《記録》する、という物語。《記録》をとる過程で、これまであった人との交友関係や、継母であることの葛藤、娘には話していない昔の恋人の存在など、自分の記憶をたどっていく。 
 読みながら、記録と記憶の違いってなんだろうか、と考えていた。 

 記録とは、主に客観的事実に基づいて、いつ、どこで、誰が、どうした、というものを、文字や音声などで物理的に残す。加えて、そのときの感情でさえも「言葉」として表に出したものならば記録することができる。記録というものは、物理的であるがゆえに存在が強固で、時間が経ってもブレることが少ないものだと言える。
 反対に、記憶は主観に基づいている。そのときの匂いや音、景色や言動といったものを思い出す(=物理的ではない)もので、美化されることも多い。振り返っている今の自分の置かれている状況によっても記憶は変わっていくものといえるだろう。記憶は存在が儚く、絶えず変容しているものともいえる。言葉にしなければ、隠すこともできる。 
 ただ、記憶はそのあいまいさゆえに「言葉」未満の感情や葛藤といったものもしまい込むことができる。それは明確さという点では記録に劣るが、あいまいで、ときには相反するような複雑な感情を、グラデーションを残したままにしておくことができる。それは大切なことだと思う。

 AIは、記録することはできるが、まだ記憶することはできないのではないだろうか。膨大な文章を学習し、すでに他人の感情をある程度は類推することができるそうだが、AI自身が感情を持つことはない。 
 そしてそれ以上に、AIには迷いも葛藤もなく、ためらいもない。作中で、娘から孫の名前を付けて欲しいと頼まれた母は、病のなか、多くの時間と気力を費やして、悩み、考えながらある二文字の名前を付ける。そこに込められた思いは、AIが瞬時に出す名前のどの候補にも込めることはできないだろう。

 連れ子だった娘は母親と血のつながりがない。本書で二人のやりとりを読んでいると、そんなものどうだっていいじゃないかと言えるくらいに互いに通じ合っているのに、娘はそれ以上の関係を望む。母親は悩みながら、たぶん血がつながっていたらその甘えから見せてしまうような暗い感情まで伝えるべきではないかと思いはじめる。
 直接娘に伝える機会がもうないかもしれないと思った母親は、ありったけの言葉を費やしてAIに記憶を《記録》していく。
 将来、そのAIが出力する言葉は、その人自身の言葉といえるのだろうか。 
 答えはない。けれど母親が紡いだ言葉、気持ちを思うと、そのAIの言葉は母親自身の言葉であって欲しいと思う。そのAIは、母親の迷いや葛藤、ためらいを経た上で言葉を発していると思いたい。そのAIになら、名前を付けられても受け容れられるような気がしている。
 読み始めは、正直「AIに亡くなった人の代わりをさせるなんて......」と思っていたのですが、AIは感情がないからこそ、他者の感情をゆだねることができるのかもしれない。自分でも驚くくらいに考えが揺さぶられた一冊です。

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駿河屋 名古屋栄店 中川皐貴
駿河屋 名古屋栄店 中川皐貴
滋賀県生まれ。2019年に丸善ジュンク堂書店に入社。文芸文庫担当。コミックから小説、エッセイにノンフィクションまで関心の赴くまま、浅く広く読みます。最近の嬉しかったことは『成瀬は天下を取りにいく』の成瀬と母校(中学校)が同じだったこと。書名と著者名はすぐ覚えられるのに、人の顔と名前がすぐには覚えられないのが悩みです。