『巨匠とマルガリータ』ミハイル・ブルガーコフ

●今回の書評担当者●青山ブックセンター本店 高橋豪太

  • 巨匠とマルガリータ
  • 『巨匠とマルガリータ』
    ミハイル・ブルガーコフ
    新潮社
    1,320円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HMV&BOOKS

もし今後ひとつの小説しか読めなくなるとしたら、あなたは何を選ぶだろうか。あるいは、無人島に一作品だけ持っていくとしたら? 通っている美容室の店主さんは『失われた時を求めて』だけあればいいと言っていた。ある人は『カラマーゾフの兄弟』とも。『百年の孤独』や『ユリシーズ』なんかを挙げる人も多いだろう。

僕にとってのそんな本がこの『巨匠とマルガリータ』だ。池澤夏樹氏の世界文学全集にも選定されているので、タイトルの聞き馴染みはあるかもしれない。僕は岩波文庫版で長く親しんできたのだが、なんとこのたび新潮文庫にも入ることになった。しかも新訳である。やった!

『巨匠とマルガリータ』はロシアの作家ミハイル・ブルガーコフによる長編小説である。彼の著作の多くは当時のスターリン政権下において発禁処分となっており、発表まで時間を要したものが多い。晩年の作品である本作も、彼が没してから四半世紀もの時間を経てからようやく日の出を見ることとなる。発禁と聞くと、旧ソ連への過激な体制批判だったり、寓意や皮肉の効いた小説を想像するかもしれない。もちろんそういった側面もあるし、当時の背景を加味しつつ注意深く読んでいけば、それらが意識的に盛り込まれていることがわかる。キリスト教の知識があればなお深いところまで潜っていけるだろう。しかしあえてこう言いたい。本作の真髄は、それらを差し置いても存分に楽しめてしまう極上のエンタテイメント性にあるのだ!

乱暴にまとめてしまうなら、モスクワに突如現れた悪魔たちが黒魔術を駆使してやりたい放題しまくる小説である。札束やドレスを次々と出してみせたかと思えば急に跡形もなく消滅させたり、気に食わない奴がいれば一瞬で何百キロも離れた土地に瞬間移動させてみたり──列挙すればキリがないほど、とにかく奇妙奇天烈、摩訶不思議な事件が起きまくる。彼らのキャラ立ちもまたいい。いかにもボスらしいヤツがいて、鼻眼鏡をした奇術師がいて魔女もいて......なかには人間の言葉を操る黒猫もおり、こいつがまた憎たらしくてかわいい。誇り高き皮肉屋! まるでディズニー映画にでも出てきそうな仕上がりだ。

いちおう主人公は巨匠と呼ばれる作家とその愛人・マルガリータなのだが、彼らはなかなか登場しない。三分の一ほど読み進めてもなお出てこない。そのかわりと言わんばかりに、悪魔一味がじゃんじゃん暴れて人々を混乱と狂騒の渦に巻き込んでいく。ただ街の平穏をかき乱すこと、それ自体が目的であるかのように......。

後半に差し掛かってようやく、彼らの巻き起こす擾乱が巨匠とマルガリータの物語にリンクする。黒魔術の力を借りたマルガリータが空飛ぶ箒を乗り回すシーンはさながらジブリの世界......ただし驚くべからず、彼女はずーっと素っ裸だったりする。もうめちゃくちゃだ。

酔っ払っているのでもないと辻褄が合わないような展開。ハチャメチャでポップでちょっぴりグロテスクなシーンが積み重なったその先に、思わぬ結末が待ち受ける──もうたまらない。僕が小説に求めているものが頭から足の先までみっちりと詰め込まれている作品だ。いや、元を辿れば『巨匠とマルガリータ』を読んだせいでこういう作品を好むようになったのかもしれない。これさえあれば無人島でも暇なしだ。

もっとも愉快で蠱惑的な物語がここに広がっている。酩酊真っ只中のモスクワへ、いざ飛び込もう!

« 前のページ | 次のページ »

青山ブックセンター本店 高橋豪太
青山ブックセンター本店 高橋豪太
眉のつながった警官がハチャメチャやるマンガの街で育ちました。流れるままにぼんやりと生きていたら、気づけば書店員に。二軒のチェーン書店を経て東京・千駄木の往来堂書店に勤めたのち、2025年10月から青山ブックセンター本店に勤務。本はだいすきだが、それよりビールの方が優先されることがままある。いや、ビールじゃなくてもなんでものみます。酔っ払うと人生の話をしがちなので、そういう本をもっと読んでいくらかましになりたいです。