『カット・イン/カット・アウト』松井玲奈
●今回の書評担当者●書店員 成生隆倫
「歌舞伎役者の霊が憑いているから、君は舞台役者になったほうがいい」
自称・霊能師の客の言葉を信じた俺は、勤務先のバーを辞め、舞台俳優養成所に入った。
動機が動機だけに、この道には多少の違和感があった。 そもそも芝居なんてちゃんとやったこともない。稽古は大変だし、ダメ出しは単純に気分が悪い。
しかし、周りからの期待や羨望の眼差しが快感だったのも事実で、それを失うのがこわかったのもまた事実だった。
養成所を卒業後、とある劇団に入団した。テレビに出るような有名役者さんと共演できる劇団であったが、雑用ばかりで演技はまったく磨かれない。起用されても賑やかし程度の端役だった。
そんなとき、運よく別劇団からメインキャストのオファーが来た。みんなの期待にやっと応えられる! 意気揚々と稽古に臨んだものの、演出家が発する怒号の嵐にメンタルはズタボロ。自分を否定されてまで芝居をしたくない。でもそうしないと周りから「凄いね」と認めてもらえない。千秋楽までひたすら耐える。それ以外の選択肢はなかった。
一杯食わされたんだ、歌舞伎役者の霊などいなかったんだ。そう気づいたときにはもう、芝居に対して疲弊しきってしまっていた。 このまま舞台俳優を続けていくことは正しいのだろうか・・・。
板の上に、居場所は見つからない。
フラッシュバックとはこういうことなのだろう。
松井玲奈『カットイン/カットアウト』(集英社)を読んで、求められる姿とありたい姿の乖離に悶える彼女たちの苦悩が、懐かしい記憶にそっと触れた。
求められる姿とありたい姿の乖離に悶える彼女たちの苦悩が、懐かしい記憶にそっと触れた。
舞台を降板したことをきっかけに、仕事が激減したアイドルの中野もも。ももの代役を務めたことで、長年細々と続けてきた舞台女優から映像媒体に引っ張りだこになったマル子。
状況変化に戸惑いながら、心身を削りながら、二人は自らが輝ける場所を見つけていく。
誰のためにじゃない、世間の声なんて関係ない。自分の価値を自分で決めたその勇気に、素直にスタンディングオベーションしたくなった。
完璧なハッピーエンドじゃないかもしれない。自分が自分らしく生きるために手放した景色もあれば、心に残した小さな棘もあるはずである。それでもじっくり時間をかけて、彼女たちは信じた道を歩き始めたのだ。
最後のページをめくったとき、己の直情が、トラウマや欲求や罪悪感の狭間から飛び出そうとしているのを感じた。迫りくる先取りの不安や後悔を突っぱねて、新たな希望が胸の中で産声を上げる。
「歌舞伎役者なんて憑いてませんが、精一杯がんばります!」
快活な声が響く。
六年ぶりの稽古場に苦行のような空気はない。力を合わせて素敵な作品を作ろう!という純粋な気持ちが溢れているだけだ。
周りに感謝こそすれ、期待は背負わない。誰のためにじゃない、しかし歪んでいない。こっそり棘を撫でると、心地よい痛みが全身に広がった。俺は小さく笑みを浮かべ、仄かに震える指先で台本を広げる。
歌舞伎役者、やっぱり憑いてくれねえかなあ。 幸せな苦悩が舞台俳優を襲う。
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- 『太陽の塔』森見登美彦 (2025年5月1日更新)
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- 書店員 成生隆倫
- 立命館大学卒業後、音楽の道を志すが挫折。その後、舞台俳優やユーチューバーとして活動するも再び挫折し、コロナ渦により飲食店店員の職も失う。塾講師のバイトで繋いでいたところ、花田菜々子さんの著書と出会い一念発起。書店員へ転向。現在は書店勤務の傍らゴールデン街のバーに立ち、役者業も再開している。座右の銘は「理想はたったひとつじゃない」。