『鴨川ホルモー』万城目学
●今回の書評担当者●BUNKITSU TOKYO 成生隆倫
チャペルの扉から登場した丸岡(仮名)は、少しはにかみつつも堂々と拍手の海に頭を下げた。ブルーのジャケットをその長身に纏わせ、真横を通りすぎていく。
守るべき人を待つ彼の顔に、十五年前のあどけなさはもうない。
時間の流れに小さく唇を噛みながら、俺は手のひらを盛大に打ち合わせた。
丸岡は、大学生になって初めてできた友人だった。
入学後のオリエンテーションで隣になり、そのまま六畳一間の下宿先へ連れていったのがきっかけだった。
「ベランダに洗濯機を設置したんだけど、ホースと排水口の位置が合ってなくて水浸しになっちゃうんだよね...。なあ、よければずらすのを手伝ってくれないか。これから」
突拍子もない申し出にも関わらず、丸岡は二つ返事で引き受けてくれた。
俺は確信した。この男はとんでもなく暇なのだろうと。
そして暇人同士、間違いなく気が合うのだろうと。
「なあ、丸岡。鴨川ホルモーって知ってるか」
理想のキャンパスライフを披露しあっていた、ある春の夜のことだった。
知らない、という丸岡に対し、俺は嬉々として『鴨川ホルモー』の素晴らしさを熱弁した。
立命館へ入学したのも『鴨川ホルモー』の影響だと言うと、彼も興味を持ったのか、後日会ったときには小説も映画も履修していた。
「しょーもないことに全力で取り組めるって大学生の特権なんだな。もっと今を謳歌しなきゃと思ったよ。あとは、恋。オレも主人公や成生みたいに恋したくなった」
しみじみと感想を語る丸岡に俺は強く頷いた。
そう、鴨川ホルモーといえば恋である。そして何を隠そう俺自身も、インドアサークルの新刊コンパで出会った激マブ清楚系黒髪美少女ナホちゃんにメロメロになっていたのであった。
だが、主人公・安倍のように大失恋はしない。
過酷な受験闘争を制し、憧れの京都生活に染まり、華麗なる大学デビューを果たした俺の辞書に失敗の二文字はなかったのである。
三週間後、俺は失恋のショックで高熱を出し寝込んでいた。
このままベッドに溶けてしまいたい...窓の外にそびえる大文字に力無く呟き、何も食べないまま肉体の消滅を祈った。
しかし、そんな自暴の精神とは裏腹に、数日後にはケロリと平熱に戻っていた。ちゃんと腹も減っていた。
「成生、飯いこう」
丸岡に誘われ、行きつけの店でお好み焼きと焼きそばをガツガツ食らうと、失恋の傷はあっさり薄くなった。
店を出た俺たちは、そのまま勢い任せで鴨川デルタへと自転車を走らせた。
「ぬあああーーー! ホルモオオオーーー!」
癒えきらない若い感情を、夜の鴨川に思い切りぶつけた。
ちょっと離れたところで笑う丸岡のもとへ、俺は全速力で駆けていく。 お前もやろう!
ホルモーって言おう!
ほら、恥ずかしがんなって!
と叫びながら。
この先もずっと「しょーもないことに全力で取り組める」日々が続けばいい。
期限なんか設けないで、飽きるまで青春できればいい。
...丸岡、お前はどう思ってた?
昔に戻りたいわけではないけれど、昔に戻れないことを悟らなきゃいけない。
だって俺たちのそばにはもう、立命館も、鴨川も、あのくそ重い洗濯機もないのだから。
昔を懐かしむことはするけれど、昔に戻ろうとすることはしない。
だって大人になった俺たちを輝かせているのは、新たな希望に満ちた「今」なのだから。
バージンロードを歩いてきた新婦さんが、丸岡と向かい合った。
純白のベールを優しく上げた丸岡は、幸せそうに彼女に微笑む。
一瞬の静寂ののち、これでもかというほどの拍手の海が、再び式場を包み込んだ。
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- BUNKITSU TOKYO 成生隆倫
- 立命館大学卒業後、音楽の道を志すが挫折。その後、舞台俳優やユーチューバーとして活動するも再び挫折し、コロナ渦により飲食店店員の職も失う。塾講師のバイトで繋いでいたところ、花田菜々子さんの著書と出会い一念発起。書店員へ転向。現在は書店勤務の傍らゴールデン街のバーに立ち、役者業も再開している。座右の銘は「理想はたったひとつじゃない」。

