『金木犀とメテオラ』安壇美緒

●今回の書評担当者●丸善お茶の水店 沢田史郎

 北海道南斗市に新設された中高一貫の女子校、私立築山学園。その一期生として入学し、6年間をともに過ごすことになる35人の少女たち。中でも抜きん出て成績優秀な二人の生徒が、まるでイモムシが蛹になり、やがて背中を割って羽を広げるかのような変貌を遂げる。その奇跡の輝きを、読者の胸に強く焼き付ける物語。それが、安壇美緒の『金木犀とメテオラ』(集英社)だ。

 都内在住で超秀才。その上、ピアノは国際コンクールで入賞する程の腕前。当然、このままエリート街道まっしぐらのつもりでいたところに、青天の霹靂。父親の独断で築山学園に入学することになり、北海道にやって来た宮田佳乃。

 一方、南斗出身で自宅から通う奥沢叶は、すれ違う人が振り返る程の美貌の持ち主。そして、どんな時でも《一定の節度を保って》いる品行方正な優等生。

 この二人を中心に、友だち同士の思い遣りやライバル心、或いはささやかな寮規違反を伴う微笑ましい冒険譚などが、学園もの特有の賑やかさで展開する訳だが、その間、宮田と奥沢は、それぞれがいつの間にかお仕着せられた"あるべき自分"という役回りを演じながら、自分はどうありたいのか? 自分は何がしたいのか? その解を見失い、狭い価値観の中で身動きが取れなくなってゆく。その際の彼女たちの──捕えられた野生動物が檻の中で上げる悲痛な鳴き声のような──心の叫びに、耳を澄ませて読んで欲しい。それでも折れまいと歯を食いしばる健気な姿から、目を逸らさずに読んで欲しい。

 その悲嘆と無力感は、入学から4年半が過ぎた高校2年の秋、学園生活最後のイベントとなる合唱コンクールを前にして、遂に彼女たちのキャパシティを越えて溢れ出る。

 模試の成績もピアノの演奏もスランプに陥った宮田は、《ここに最初に来た頃は、勉強にもピアノにも自信があったから。自分は価値のある人間なんだって思い込んでました》と、入学以来初めて弱い自分をさらけ出すのだが、では、宮田より成績が劣る生徒は皆、"価値がない"のか? ピアノなり何なりの特技を持たない者は"価値が無い"のか? 宮田の告白は言い換えればそういうことになるのだが、無論、彼女にそんなつもりは無いのだろう。

 ただ彼女は、誰かから、とりわけ両親から、無条件に愛された体験が無い。「何も要らない、あなたがそこに居るだけで嬉しい」といった愛情を享受した記憶が無い。だからであろう、自分の価値をテストの点数やピアノの技量でしか確信出来ないのは。故に、その取り柄を失くしてしまうと、途端に自分を肯定出来なくなる。

 同じく親の愛とは無縁で育った奥沢は、みじめな境遇から脱するために、己の学力を、美貌を、清廉でまじめという声価を、目いっぱい利用しようと野心をたぎらせる。

《早く早く、この家を出て進学をして就職をして、今ここにあるすべてを捨てて、何の事情もない何の問題もない、純粋な女の子になるんだ》。

 しかし、である。"何の事情もない何の問題もない"人間など、どこにいると言うのか? 生きて生活している以上、程度の差こそあれ、誰も彼もが様々な悩みや不満や悲しみや息苦しさを背負って暮らしているのだ。だが、自身の不遇への恨みを満腔に溜め込む奥沢には、周囲の人間が皆、ラクをして幸運にありついているようにしか思えない。そんな感情を抱えていては、幸せを感じることなど出来る訳はない。

 それでも、曲がりなりにも4年半、たゆまずに培ってきた絆が、折れる寸前の彼女たちの心を支える。場面は合唱コンクール当日の舞台袖。

 尊大で自信家で我儘だと思っていた宮田が、何を恐れてか震えている。それを目の当たりにした奥沢は、考えるより先に「大丈夫だから」とその手を握る。《人が思うよりもずっと、この世で奇跡は起きるから》と。そして、《不安も、恐れも、孤独も、緊張も、自分ひとりの持ち物ではないことを知った》彼女は、"今の自分"を恥じることなく毅然として指揮台に向う。

 更には、宮田。これまで何度となくソリが合わないと感じさせられてきた奥沢から、半ば押し売りのような激励を受けた後、何故か震えは治まっていた。そして合唱が始まると、体験したことのない感覚に包まれる。《自分のピアノの音よりも、人の歌声に意識が向いた。外の音が、みんなの声が、どんどん自分の中に入ってくる》。そうなのだ。この時、宮田は初めて"自分以外の誰か"のためにピアノを弾いたのだ。......いや、逆か。"誰かに"或いは"何かに"弾かされていたのが今までの宮田なのだから、この時、自らの意思でクラスの伴奏を買って出た彼女は、生まれて初めて"自分のために"演奏したのかも知れない。巧いも下手も勝ちも負けも忘れて、きっとただ弾きたくて弾いたのだ。

 こうして、イモムシのように丸まって屈託を抱えていた12歳の少女たちは、4年半後、17歳で見事に蝶に変身し、自分の羽で飛ぶ術を知る。

 いやぁ、いいもん読んだ! 小説すばる新人賞のデビュー作『天龍院亜希子の日記』と『金木犀とメテオラ』、まだ2作のみの作家だが、安壇美緒の名前は覚えておいて損は無い。少なくとも俺は絶対に忘れない。

 そして最後に蛇足を。物語全編に亘って、青春小説らしい爽やかな友情の風を送ってくれた名脇役、森みなみと北野馨。彼女たちにとっての築山学園とは、果たしてどんな場所だったのだろう? いつか『小説すばる』あたりでスピンオフを読むことが出来たら、一ファンとして最高に幸せなんだが......。

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丸善お茶の水店 沢田史郎
丸善お茶の水店 沢田史郎
小説が好きなだけのイチ書店員。SF、ファンタジー、ミステリーは不得手なので、それ以外のジャンルが大半になりそう。 新刊は、なんだかんだで紹介して貰える機会は多いので、出来る限り既刊を採り上げるつもりです。本は手に取った時が新刊、読みたい時が面白い時。「これ読みたい」という本を、1冊でも見つけて貰えたら嬉しいです。