『夏帆』村上春樹

●今回の書評担当者●本の森セルバ岡山店 横田かおり

  • 夏帆 The Tale of KAHO
  • 『夏帆 The Tale of KAHO』
    村上春樹
    新潮社
    2,860円(税込)
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主人公の「夏帆」という名は彼女の父親が見た夢に由来していた。
浦和で小児科医を開業している父は、彼女が生まれる直前に夏の海を白いヨットが滑走している夢を見た。真面目で実直な父は占いや夢見を信じるタイプではない。けれど、何度も同じ夢を見たことで、そこには重要なものごとが示唆されていると考えた。だから、二月に生まれた彼女には「夏帆」という名が授けられた。

物語は、夏帆と男性のブラインドデートのシーンからはじまる。食事が終わる頃合いに突如男に容姿を侮辱されて以来、彼女の「物語」は大きく変調をきたしていった。
夏帆の"夢"に出現したありくい。人々が寝静まった夜中に響く、モーターサイクルの不吉なエンジン音。父と二人で暮らす母親の明らかな異変。
何がきっかけだったのか分からない。けれど、いつの間にか夏帆は"境界線"を超えてしまった。

武蔵境に越した夏帆は、床下に住まうありくいの夫婦に助けられながら、危険な存在と対峙していく。ありくい夫妻の子どもを無残に食い殺したジャガー。閉じられていたはずの通路を抜け、こちらの世界へやってきたシロアリの女王。悪しき存在である彼らは心の暗部を伝い、夏帆の周囲の人に取り憑くことで、彼女に揺さぶりをかけてくる。
夏帆を取り巻く円環の一番弱いリンクは彼女の母親だった。容姿も性格も似通った所のない母と娘は、いささか礼儀正しいほどに距離を保ってきた。幼少期、父と触れ合った記憶の一方で、母のぬくもりや匂いを夏帆は思い出せなくなっていた。
「夏帆ちゃん」といつもと違う呼び名を使った母は、悍ましい姿の女王に乗っ取られつつあった。

夏帆に預言と示唆をもたらす白き存在は、彼女が愛してきたものたちの化身だった。彼らは、ありくいや猫、大天使に姿を変え、やみくろが蠢く地底世界から彼女を救おうとした。
外部からの援護だけでなく、絵本作家の自身にしかできないやり方で彼女は自らを掬い上げていく。内なる子どもが主人公の物語をくぐり抜けた夏帆は、現実の世界で"母"と対面する最終局面を迎えることになる。

善き物語も悪しき物語も、夏帆の内側から生み出されたものであった。母との捻じれた関係が起点となって作り上げられた"闇の世界"から脱出し、善き物語へと帰還することが夏帆に与えられた命題だった。
悪に取り憑かれた母の胸を貫く、とくべつな刃物がその手に握られていたとして、母親殺しの重罪を前に夏帆は怯え葛藤する。天使の助言を持ってして、夏帆の心に恐怖が充満していく。
混濁する意識の中、夏帆と同じ形をした母の薄く小ぶりなくちびるがかすかに開く。
「夏帆さん」と呼ぶ母の声が、閉じられつつある世界に風穴を開けた。夏帆の名を呼ぶ声は私自身の"母"の声と重なり、深く激しく私の心を震わせた。娘である"私たち"は一つの魂となり、母なる存在に鋭い先端を差し込むことで、世界に光を取り戻す。

夏帆という名の気高くうつくしい女性の物語は、私を魂の旅へ誘った。
そこでは受け取り損ねたはずの母の愛が燦然と輝き、私の命を護り慈しむ存在が、魂だけの私に寄り添っていた。

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本の森セルバ岡山店 横田かおり
本の森セルバ岡山店 横田かおり
1986年岡山県生まれ。書店員歴20年。担当は文芸書、児童書。おかやま文学フェスティバル実行委員おかやま文学創造ラジオMC、note担当。【 おかやま文学創造ラジオ|note 毎週ポッドキャスト配信中】本は友だち。人生の伴走者。この世界に本があってよかった。