第170回芥川賞受賞予想。杉江「『猿の戴冠式』は言語小説特集のような候補作中でも異色」マライ「直木賞も含んだ全候補作の中で一番怖い『アイスネルワイゼン』を推す」

前回(169回)もご好評いただいた芥川・直木賞予想対談が戻ってまいりました。〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mが、1月17日に選考会が行われる第170回芥川・直木賞を深掘りします(芥川賞選考委員は、小川洋子・奥泉光・川上弘美・島田雅彦・平野啓一郎・堀江敏幸・松浦寿輝・山田詠美・吉田修一)。直木賞編はコチラ

■第170回芥川龍之介賞候補作
安堂ホセ「迷彩色の男」(「文藝」2023年秋季号)2回目
川野芽生「Blue』(「すばる」8月号)初
九段理江「東京都同情塔」(「新潮」2023年12月号)2回目
小砂川チト「猿の戴冠式」(「群像」2023年12月号)2回目
三木三奈「アイスネルワイゼン」(「文學界」2023年10月号)2回目

目次
▼安堂ホセ「迷彩色の男」だいたいタイトルからしてひっかけ問題
▼川野芽生「Blue」青春小説としては申し分ないが
▼九段理江「東京都同情塔」ジャンル横断的な知性を存分に感じさせるのが強み
▼小砂川チト「猿の戴冠式」他人の言語が自分を語ることへの抵抗を異生物との間で描く
▼三木三奈「アイスネルワイゼン」現代人の肌感覚に寄り添う不安を的確に再構築する技量
▼芥川賞候補作総括●言語の小説という側面を持つ作品が多かった中で

安堂ホセ「迷彩色の男」だいたいタイトルからしてひっかけ問題

杉江松恋(以下、杉江) まずそれぞれのイチ推しと受賞予想ですね。

マライ・メントライン(以下、マライ) 予想は「東京都同情塔」と「アイスネルワイゼン」、推しは「アイスネルワイゼン」です。

杉江 私は「猿の戴冠式」が受賞予想で、推しは、うーん、「アイスネルワイゼン」。

迷彩色の男
『迷彩色の男』
安堂 ホセ / 河出書房新社 / 1,760円(税込)
あらすじ
自身の性的な映像を配信していたいぶきが〈私〉との性交後に何者かに刺され、重傷を負った。現場から立ち去った男たちの誰かが犯人なのだ。〈私〉は顔のない犯人を追い続ける。
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マライ 前作『ジャクソンひとり』(河出書房新社)と同様、根源的なテーマは、「アイデンティティの本質とその加工・交換の可能性」という感じです。作者にとってライフワーク的なテーマなのか。本作で使用される「迷彩」には、フィリップ・K・ディックの『スキャナー・ダークリー』(ハヤカワ文庫SF)に登場するスクランブル・スーツ的なニュアンスがありますね。現代の若者が多く抱えているといわれる、悪目立ちをとにかく避けたい感も。大きな特徴として、電脳バーチャル領域のネタを駆使しながら、ダイレクトで生々しい五感の知覚を鮮烈に強調する点があります。皮膚感覚絶対主義みたいな。それが暗号化されながらコミュニケーションや価値評価にて絶対的な力を発揮する、という描写が興味深い。

杉江 視覚表現の文章がおもしろかったですね。クルージング・スポット(いわゆるハッテン場)の店内描写とか、そこを出た男たちが絵画のように並んでみえるくだりとか。ありきたりの言語を信用せず、自分に見えたものを見たままに表現しようという執着を感じます。

マライ 視覚表現の面白さには同感です。安堂ホセ氏が描く知覚世界って、深海底の生態系じみた感触なのが良いです。各々がレーダー的ともいえる鋭敏な知覚で状況認識と互いの評価を行う。19世紀自然科学的な「動物磁気」に満ちた情景といえるかもしれず、一周まわって新しい。

杉江 動物磁気って、メスメルが提唱して催眠治療の元になったあれですか。

マライ そうそう。あれが催眠治療に役立ったのは結果的な話で、そもそも動物磁気説にはマクロコスモスとミクロコスモスの相似的連動とか、そういう哲学系オカルト思想が根本にある。で、「表面的な」医学科学よりも「動物磁気の循環と相互作用によるネットワークにこそ真の生体的な道理がある」という信念が生じる。すると、通常の言語・対話コミュニケーションのシステムを下位に見做す共同幻想が成立する。

杉江 なるほど。

マライ あと、全体的に空気感が六本木族文化っぽいのが興味深い。90年代の東京ガイジン文化の後裔の香りが濃密に漂うというか。それは「アイデンティティのゆらぎ」とその周辺に漂う「祝祭と怨念」感を描くために重要な設定なのかもしれません。

杉江 自分たちの文化的視座を護ってそこの言葉を使おうという意図が見えましたね。だから、描かれているものに慣れないといちいち引っかかる。そうやって読者を立ち止まらせることも狙いの一つでしょう。自分たちの頭にある語彙で片付けるなと。マライさんがおっしゃったレーダー的なやりとりというのは、スポットに来た男たちがシグナルで性行為の同意有無を確認しあう箇所のことですよね。ああいうやりとりにも外の言語を使わないようにするという意志を感じます。外の言語は自分たちを差別視し、アウティングしようとする無意識の悪意に満ち満ちているからで、そうしたことに敏感な小説でしたね。

マライ 最近はいろんな業界の言葉が内部言語化する傾向があって、それを受けた演出という印象はありますね。ただ、一般読者に対する訴求力という点ではどうなんでしょうか?

杉江 内部言語化、もしくは分断化だと思うんですけど、シスヘテロ(生まれたときの性別が自認と一致しており、かつ異性愛者である人)言語が支配的な社会においては、隠すことに意味があるという主張なんだと思います。よくわからない読者が多くなるのも仕方ない。

マライ 「隠すことに意味がある」、なるほどです。だから最近はネット議論でも、LGBTQ問題に限らず噛み合わない主張のぶつけ合いが多くなるのか、と思ったり。

杉江 本作の特徴として、安易な理解を阻むという点があると思います。簡単にわかった、という人に対して、それはシスヘテロゆえの誤読です、と作者は言うかもしれない。だいたいタイトルからしてひっかけ問題ですよね。『迷彩色の男』が何を指すのか。

マライ そうそう。ぜったい多重性な含みを持たせてるんだろうな、とは思います。

杉江 読み手の中にある無自覚・無意識な偏向をいぶりだすためのセンサーにもなっている作品だと思います。そこがおもしろかったですね。

 

川野芽生「Blue」青春小説としては申し分ないが

Blue
『Blue』
川野 芽生 / 集英社 / 1,650円(税込)
あらすじ
高校の演劇部が「人魚姫」を翻案して上演、脚本を巡って部員たちは性に関わる事柄をさまざまな角度から話し続ける。卒業後、彼らは「人魚姫」に呼ばれるように母校に戻って来る。
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杉江 川野さんは歌人として名のある方でしたが、一昨年幻想小説作家としてもデビューされています。そちらの印象が強かったので、芥川賞候補になられてちょっと驚きました。

マライ 一貫して神学議論が交わされている印象を受けました。演劇部の高校生たちがアンデルセン「人魚姫」を翻案・舞台化する作業を軸に、愛の本質&ジェンダーの障壁とは何かを深掘りしていく。舞台すなわち「演じる」という要素の普遍化を通じ、それがジェンダーと生き方にどう影響するのかを洞察するあたりが大きなポイントかなと。

杉江 あの「人魚姫」の翻案はおもしろいですね。上演されたら観てみたい。

マライ ただ全体的に、観点網羅シミュレーション感が強いですね。そこが好みの分かれるところでしょう。トランスジェンダーである真砂を観測点に置いて、ジェンダー議論で俎上にのぼる「愛」にまつわるストレスの各種パターンを周辺人物に振り分けて、強引にコンプリートさせている気がしなくもない。それを「よくぞ描いてくれた!」と感じるか、一種の頭でっかちさと感じるか。

杉江 読んでいて、『まんがタイムきらら』っぽいなあ、と感じたんですよね。三上小又『ゆゆ式』(芳文社)あたりを思い浮かべたんですけど。キャラクターがゆるい会話を続ける日常系の話に見せておいて、それが積み重なっていくと違った全体像になる。後半の展開は、出版社が違いますけど美水かがみ『らき☆すた』(KADOKAWA)の7巻以降みたいだ、と思ったりもしました。

マライ その感想は作者としてはどうなのか(笑)。本作にはいろいろと考えさせられる面があるんですね。たとえば、前回芥川賞を受賞した衝撃作、市川沙央『ハンチバック』(文藝春秋)は、身体的な生きづらさを抱える当事者が著したこと以上に、そこで描かれる内面が、立場を超えて読者に「自分たちの側のヤツだ!」と直観的に感じさせた作品だと思うのです。それと比較して本作はどうなのか、たとえば、作中で言及される小説投稿サイトのリアルユーザーからみて、本作で小説書きとして登場する滝上ヒカリは自分たちの仲間に見えるのか、とか。あと、どうしても気になるのが先述した網羅性の詰め込み感です。

杉江 ああ、登場人物がキャラ化されている感はありますね。そこがマライさんのおっしゃる観点網羅シミュレーションにつながると思うんですけど、属性を振り分けられたモデルに見える気はします。だから、もしかするとカテゴリーエラーと見なされるんじゃないかとも思ったんです。たとえばこれが『小説すばる』に掲載されたんだったら、青春小説として申し分ないんですよ。登場人物には十分共感できますし。ただ、純文学として評価されたときには危ういかもしれない。芥川賞に、この他人事感は合わないのでは。

マライ それだ! 他人事感。

杉江 選考委員で言えば、山田詠美さんあたりがこれをどう読んだか、ものすごく気になりますね。山田さん向きの作品ではない気がする。

 

九段理江「東京都同情塔」ジャンル横断的な知性を存分に感じさせるのが強み

東京都同情塔
『東京都同情塔』
九段 理江 / 新潮社 / 1,870円(税込)
あらすじ
新宿の真ん中に画期的な受刑者服役施設が建築されることになる。その名称について建築家・牧名沙羅が思いを巡らす場面から物語は始まり、落成後の未来像をも描いていく。
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マライ 言霊とは何か、日本人はなぜ横文字ネーミングに走るのか、そして、建築は言語的要素との相乗効果でどの程度心理的シンボルとしての効力を発揮するのか、といった点が相互連関的に掘り下げられていきます。もしも東京五輪スタジアムがザハ案どおりに建設されていたら、という並行世界を舞台にしているのがミソで、ネタの重みに負けない、作者のジャンル横断的な知性を存分に感じさせるのが強みですね。AIの使い方がメタ技巧的にもなかなか面白い。ただ、前半の情報羅列文体のクドさで嫌気が差す読者が一定数発生しかねないのがリスクポイントでしょうか。

杉江 言語の形態から独自性が強いと内外で言われ、かつ国民自身もそれに甘えている感のある日本語表現についての小説だと思うのです。その点マライさんが受賞候補にされているので、おう、と思いました。

マライ これ、作中で全く言及されておらず作者が認識しているか不明ですけど、本作で描かれている、人権問題に過剰配慮したトーキョーシンパシータワーのような「思想的」建築物は、実はナチスドイツが戦時中に具体化しています。高射砲塔(Flakturm)というもので、都市内に建造する塔状の、高射砲台を兼ねた巨大防空シェルターです。目的合理性を奇妙に欠いた特徴を持ちます。なぜかといえば防空シェルターは地下に建設したほうが、そして高射砲陣地は都市内ではなく外縁部に設置したほうが機能面で理に適っており、コストも数分の一で済むからです。では何故わざわざそんなものを建設したのか? それはナチス上層部、特にヒトラーの、「第三帝国にて機能は視覚化されねばならない! そしてすべての機能は示威的に!」というコンセプトの優先順位が高かったからです。そのビジュアル的な「機能」が最高度に発揮されたのがウィーン高射砲塔群でした。いくつも建てられた各塔の立地は、「リング」と呼ばれるウィーンの美術・伝統文化の中枢エリアを包囲、睥睨するように選ばれていたのです。19世紀的伝統文化を仮想敵とし、防空よりも「価値観の侵食・制圧」のための武器だったわけですね。「東京都同情塔」は、不明確ながら昏い将来的予感を漂わせて終わりますが、私の目には高射砲塔じみた精神的陰翳が思い切り望見できてしまいます。

杉江 私はこの小説、少々胃もたれしました。序盤はやはり話題を詰め込みすぎた感があって、関心が拡散するんですよね。後半になってAIによる自動生成文章の話題が出てきて初めて、全体をまとめてくれる桶のたがが出現したか、と腑に落ちました。

マライ もうひとつの本作の重要テーマ、悪・犯罪性の無力化について。私から見ると「ああ、この物語は、『PSYCHO-PASS サイコパス』の前日譚としてバッチリだ!」という納得感が高いです。真によく出来た倫理ディストピアは倫理ユートピアの顔をしてやってくる。そういえば、かの宮崎駿先生にも、高射砲塔を題材にしたイラスト掌編(『宮崎駿の雑想ノート』第7話「高射砲塔」)があります。ここでは高射砲塔が明確に「手段と目的が逆転したドイツ的呪具」として描かれていて、毀誉褒貶あるけどやはり宮崎駿は凄いなぁ、と感嘆せずにいられません。

杉江 あの刑務所塔、もうちょっとディテールを書きこむとそれだけで一つの作品になりますよね。たぶん終身刑犯ばかり集まっているんだろうし、運営はどうするのか、一般人も混じって行動しているけど大丈夫なのか、とか、いろいろわからないことがありました。そこがちょっと不満なんですよ。細部の曖昧さが、逃げの印象を与えないといいな、とは思います。場合によっては突っ込まれかねない。

マライ そこはイメージ・インパクト優先で運営面の設定は意外とテキトーなのかもしれません。ネタの圧倒的連打飽和感でそこをカバーできるという作戦では? という気もします。

 

小砂川チト「猿の戴冠式」他人の言語が自分を語ることへの抵抗を異生物との間で描く

猿の戴冠式
『猿の戴冠式』
小砂川 チト / 講談社 / 1,760円(税込)
あらすじ
とある動物園に毎日訪ねて来る女性・しふみは、ボノボのシネノに強い執着を持っていた。自分の過去と現在はそのボノボと不可分に関わっていると信じ、彼女はある行動を起こす。
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マライ これは最強の「渇望小説」ですね。そして、事実関係の構造をひとつに絞られたがらない。大まかにいえば、冒頭に描かれる人間の幼児と類人猿とのコミュニケーション実験が本篇とどのように関わっているかの読み方で解釈が分かれるでしょう。「エヴァンゲリオン」の人類補完計画を末端個人の側の視点から描いたっぽい感触があって興味深い。小砂川チト氏は、『家庭用安心坑夫』(講談社)のときもそうだったのだけど現実と妄想の混淆のさせ方が独特で、ありていにいえば妄想のほうが真実に近い的を射ている的な文脈を展開するのでいろいろ油断ならない。あと独特の容赦ないユーモア感覚が良いです。

杉江 しふみがいきなりボノボに呼びかける序盤からぐっと引き込まれました。ちなみに昨年、大阪に行った翌日に天王寺動物園からチンパンジーが逃げまして。あの脱走事件があった後で書かれたのかどうかがちょっと気になりましたね。

マライ 本作、いちばんイマドキ的感覚に近接する要素としてはネット炎上体験でしょうね。主人公が自己糾弾をするやり方がネット民そのものです。鉄壁の自己嫌悪からどう救済にもっていくかというのが小説の構造としては重要で、「深く共鳴しあう他者とのシンクロ」という観念が出てきます。そうなると心を依拠させる対象が必要になりますが、それは何になるのか、というのが核心です。結末の見かけどおりにポジティブな話じゃないでしょうし、クセはあるけど興味深い実験小説だと思います。ただ、読んでて全くビジュアルイメージが湧いてこなかったのと、書き方がパズル的に凝り過ぎていたのが、ちょっと私的にはマイナスだったかもしれません。

杉江 今回の候補作は言語小説特集だと思うんです。自分を語る言語が存在しない、あるいは奪われてしまった人がこの社会にはいる、ということに着目した作品が多かった。それはLGBTQの問題と一体のもので、今ある言語は多数派の誰かほかの人のものであるという抗議に結びつきます。そこで自分を語る言語の発見、あるいは他人の言語が自分を語ることへの抵抗というテーマになると思うんですが、本作はそれを異生物との間でやったという点が小説の個性になっています。

マライ それは同感なんですが、ボノボの主観描写をどれくらい信用するか、とか気になるとキリがない面もありませんか。ボノボには知り得ない情報がたくさん入っているので、個人的にはかなり妄想の可能性が高いと思います。

杉江 ボノボの主観描写を信用するかどうかというのはいい御指摘だと思います。『家庭用安全坑夫』のときも同様の議論が起きましたが、語り手の妄想である可能性は担保しておかねければいけない。ただ妄想であったとしてもその場合は、人間ではなくボノボにしか同胞を見出せなかった人物が語り手ということで、テーマとは背反しないと思うんです。

マライ あとで総括で言うと思うんですが、その「言語小説特集」感って、文芸業界内的な話のように感じるのですよ。どこかやりすぎな印象がある。

杉江 わかりますが、世間一般に向かうと同時に、潜在的なテーマを浮かび上がらせて小説として表現することに価値を見いだすのが純文学の役割ではないかと思います。今はメジャーに見えないかもしれませんが、そこはやっておいて損はないという気がします。

マライ そこは杉江さんと私の根本的な立場の違いに由来する相違なんでしょうね。納得です。とにかくポテンシャルが凄いのは間違いない。

三木三奈「アイスネルワイゼン」現代人の肌感覚に寄り添う不安を的確に再構築する技量

アイスネルワイゼン
『アイスネルワイゼン』
三木 三奈 / 文藝春秋 / 1,980円(税込)
あらすじ
琴音はある事情で勤めを辞め、今はピアノを演奏し、講師を務めることで生計を立てている。クリスマスイブに友人の斡旋で入った仕事は彼女にとって不愉快極まりないものだった。
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マライ 直木賞も含んだ全候補作の中で一番怖かった作品です。被害者・傍観者属性に見えるけど潜在的に強い攻撃性を持ち、それが遠因となって人生ジリ貧コースを進む主人公が、自覚以上のストレスに内外から潰されて壊れるまでを鮮やかに描きます。何が特筆モノかといえば、無自覚で陰湿な「弱者の攻撃性」の描き方でしょう。善性や美を知覚する能力も存分にあるのに、墜ちる人は精神生活の底辺に墜ちるべくして墜ちる。もう一つ逆に、どんなクソ野郎でも納得感の高いことを口走る瞬間がある、という不愉快な真実を直視している点もポイント高い。第167回芥川賞の高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(集英社)の陰画ともいえそうな構造を持つ作品です。

杉江 『おいしいごはんが食べられますように』の陰画というのは言い得て妙ですね。ふわふわと中身のない人間がその空虚さゆえに最終的に自滅する小説ですよね。相手に会わせて流されていくという意味では、LINEコミュニケーションをそのまま小説化したような感じもあります。

マライ そうです。私はSNS人間なのでそのへん違和感なかったです。

杉江 これ、ふわふわ感がポイントだと思うんですよね。実は親に家賃などを依存している三十歳の主人公はきついところまで追い込まれているのに、それを他人に見せないように偽装している。恋人との匂わせ画像を投稿しているSNSアカウントの、画面の向こう側を覗かされているような怖さがあります。私もいまそう言いながらリモート収録なんで芋ジャージ姿なんですけど(笑)。

マライ 私も似たようなもんなのでご心配なく! ことさら時流っぽい装いをしていないにもかかわらず、現代人の肌感覚的にいちばん寄り添う不安を的確に再構築する技量、そして「お前ら自分のバッドエンドをどこまでも認めないだろ」という皮肉さが傑出しているように感じます。しかも抜群に読みやすい。これは推せる! 読者にどこまで刺さるか、という点ではかなり強力な気がします。いわゆる「失われた三十年」とかとも微妙に関係する精神性がありますよ。

杉江 書店フェアもやりやすそうですね。「ゆるふわ系女子の素顔を暴く!」とかポップをつけて。これ、主人公に感情移入可能なように書いているんですけど、引き付けておいてとんでもないところに読者を連れて行ってしまう。あの語りの技巧にも感心しました。

マライ ただ、読む人によってはかなり早めに主人公の正体はわかるのでは。彼女がピアノを教えている生徒と別れた直後の会話とか、けっこうゲスいですよ。

杉江 ああ、そうですね。生徒がピアノじゃなくてマンガ教室に行きたいと言い出したあとの投げやりな感じとか、いちいち信用できない感じです。あんな人を家に入れちゃだめだよ、お母さん。

マライ パッと見イイヒトっぽいんですよ! 偉い人にはそれがわからんのです。

杉江 (笑)。話しているうちになんだかこれが受賞するかも、という気がしてきました。

マライ でしょ。個人的にはこの凝り過ぎでない読み心地も、今回のラインナップ内では特筆モノとして評価したいです。

杉江 「芥川賞にしてはおもしろすぎる」選評が出る可能性もあるかと思いました。主人公のキャラクターがどう受け止められるかが勝負ですね。

 

芥川賞候補作総括●言語の小説という側面を持つ作品が多かった中で

杉江 というわけで全候補作について読んでまいりました。最後にマライさん、総括をいただけますか。

マライ 前回受賞作『ハンチバック』の衝撃余韻がまだ残るというか、ああいう社会的テーマのリアル当事者視点+超言霊のスーパーコンボ技を目の当たりにした上で、非当事者な書き手はどう対象にアプローチすべきか?的な切迫感が大きかったと思います。それがポリコレ的要請をめぐる葛藤と相まって、情報小説というか注釈小説というか、妙に頭でっかちな観点敷き詰め感を生じさせている印象があります。たとえて言えばドイツ語原文でカントを読むような過度の晦渋さというか(笑)。いわゆる「五大文芸誌」の界隈近辺では実際それもアリなんだろうけど、社会の空気感にモロに晒される面が大きい「芥川賞」でその業界ノリはどうなのか?そんな中、あえてキャッチーなトピックから離れながらも現代的生活感覚の問題をうまくテーマ化した「アイスネルワイゼン」には文芸としての原点回帰っぽい力強さを感じました。もしこれが広範に支持され評価されるならば、そのまま一種の業界指針的なものになりうるのか、注目したいと思います。

杉江 ご指摘のように、社会を見るための観点をいかにすべきかという作品が多かったように思います。小説は世界に開けられた窓でもありますから、それは当然でしょう。一方で今回は言語の小説という側面を持つ作品が多く、文章の構成要素である言語をいかに考えるべきかという深い思索を楽しめました。芥川賞は文章芸術に対して贈られる賞なので、世俗的な関心がどこへ向かっていても、そうした創作姿勢が評価されること自体はたいへん好ましいことだと私は考えます。17日の選考を楽しみに待ちましょう。

 

直木賞予想対談も!

前回(169回)から「WEB本の雑誌」で始まった芥川・直木賞予想対談。〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mが1月17日に選考会が行われる第170回芥川・直木賞を語り倒しますよ。大混戦が予想される直木賞についてもみっちり語ってます。

第170回直木賞選評を読んで徹底対談はコチラ。

 

 

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