第169回直木賞受賞予想。杉江「消去法で永井紗耶子『木挽町のあだ討ち」」マライ「脳内で絶叫が谺するような超快作は無かったかも」

今回からWEB本の雑誌にお世話になって、芥川・直木賞予想対談をすることになりました。どうぞよろしく。〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mが7月19日に選考会が行われる第169回芥川・直木賞を語り倒しますよ。
では、直木賞候補作をじっくり語ります(選考委員は、浅田次郎・伊集院静・角田光代・京極夏彦・桐野夏生・髙村薫・林真理子・三浦しをん・宮部みゆき)。芥川賞編はコチラ

■第169回直木三十五賞候補作

冲方丁『骨灰』(KADOKAWA)3回目
垣根涼介『極楽征夷大将軍』(文藝春秋)3回目
高野和明『踏切の幽霊』(文藝春秋)2回目
月村了衛『香港警察東京分室』(小学館)初
永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)2回目

目次
▼冲方丁『骨灰』主人公の狂気を味わうのが主眼
▼垣根涼介『極楽征夷大将軍』史実と本格歴史小説とSFのハイレベル融合
▼高野和明『踏切の幽霊』鉄オタ萌えという新路線
▼月村了衛『香港警察東京分室』三つのアクションがそれぞれ違う感じなのがいい
▼永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』受賞の目は十分あるが……
▼直木賞候補作総括●ちゃんと若手を採り上げたほうがいい

冲方丁『骨灰』主人公の狂気を味わうのが主眼

杉江松恋(以下、杉江) 直木賞も行きましょうか。まずはお互いの一押しと予想です。私の一押しは『香港警察東京分室』で受賞予想は、消去法で『木挽町のあだ討ち』かなと。でもかなり自信ないです。北方謙三さんがいなくなったので『極楽征夷大将軍』を強く推してくれる人はいないかも。

マライ・メントライン(以下、マライ) 難しいですね。「イチオシ」や「受賞しそう」という基準で上手くとらえられないんですよ今回の候補作は。「狙ったとおりのor以上の深み・面白み・様式美を具現化できた上質さ」という点では『木挽町の仇討ち』、「素材の魅力とポテンシャルを予想以上に引き出した」という点では『極楽征夷大将軍』なんですが、「新しいスゴさ・オモシロさの基準を見せつけてくれてありがとう!」と脳内で絶叫が谺するような超快作は無かった気がします。なので消極的で申し訳ないですが、挙げるとすればその2作で。

骨灰
『骨灰』
冲方 丁 / KADOKAWA / 1,980円(税込)
あらすじ
渋谷駅前の地下工事現場で松永光弘が見たものは、巨大な祭壇と鎖につながれた中年男だった。その男、原義一を逃がしてしまってから松永の身辺には怪事が続く。果たして原を見つけだして家族を守ることはできるのか。
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マライ 東京都心に潜む、隠蔽された古い大規模地下構造! それに特殊な呪術が絡む! といえば都市伝説ファンとして萌えずにいられない設定です。が、話が進むにつれてストーリーが既存の伝奇モノ的ドラマの枠内に収斂してゆく感があって、そこがやや残念。帝都地下遺構ってエンタメ食材として極上ですから、もしたとえば東京地下要塞伝説と満洲都市計画の相関、そして戦後与党内の満洲人脈とその背後に蠢くシステム呪術の驚異が! みたいな展開だったら、多少の粗があっても超面白かったのに!(笑)

杉江 この小説最大の美点は、主人公の松永が常軌を逸していく過程を彼の視点からさらっと書いているところだと思うんですよ。あの危険な雰囲気を書いた点をまず高く評価します。地下祭壇のくだりは私も『帝都物語』みたいになるのかと思ったらそんなに大風呂敷を拡げずに終わりましたよね。

マライ しかしその、これはああいう構造なんだろう、と従来のホラー的文脈で読めてしまえるのが平易すぎる、と言いますか。

杉江 叙述はすごく親切ですよね。幻影にあたる部分は、これは現実ではないですよ、というシグナルを出してくれているし。かなり早い段階で小説の仕掛けは明かされるので、あとは主人公の狂気を味わうのが主眼になっていくんです。

マライ 人柱も絡む骨灰システムってカラクリ的には単純で、おどろおどろしさの割には、まあそんなもんだろう、と感じてしまう。正直、ホラー・都市伝説基準でいうと普通なので、もう少し直木賞系エンタメの凄みみたいなものを見たかった気がします。いまの日本のホラーの底上げが凄いということの裏返しなのかもしれませんが。

杉江 私『TOKYO UNDER』(グラフィック社)という専門書を出したことがあって、あちこち地下の工事現場に潜っているんですよ。渋谷の地下工事現場にも入りました。

マライ おお、いい体験ですね! どんな感じでした。ドアの裏にお札とか貼ってあったら素敵なんですが。

杉江 いやいや。整然としたものです。だから地下工事ものを読むといつも「いや、そんな無駄空間は絶対に施工許可下りない」とか思っちゃうんですよね。これは完全な無駄話ですが、虎ノ門共同溝工事の見学ツアーには結構芸能人も入っていたんですけど、そこにAV出身の某さんもいらっしゃって、現場に自分のプロマイドを貼ったんですね。そうしたら次にNHKのニュースで写ったとき、彼女の写真だけ貼り紙で隠されてました。都はいつも隠蔽工作するよなあ、と思いましたね。

マライ 素晴らしい。この余話はカット不可です。

杉江 残します(笑)。まあ、本作は冲方さんが挑戦した初のホラーで、十分に水準以上の出来です。おもしろいんだけど、直木賞ではホラーは冷遇されがちですからね。これで候補にしなくてもよかったんじゃないかな、とも思いました。というか、『天地明察』(角川文庫)のときに中島京子『小さいおうち』(文春文庫)と一緒にあげておけばよかったんですよ。

杉江「直木賞ではホラーは冷遇されがちですからね」

垣根涼介『極楽征夷大将軍』史実と本格歴史小説とSFのハイレベル融合

極楽征夷大将軍
『極楽征夷大将軍』
垣根 涼介 / 文藝春秋 / 2,200円(税込)
あらすじ
武家の棟梁と煽がれた男は、中身が空っぽだった。歴史上稀に見る英雄・足利尊氏を実弟・直義と腹心・高師直の視点から描く。何も考えていない男は、なぜ室町幕府を開くことができたのか。その生涯を描いた歴史巨編。
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マライ 冒頭、浜辺で遊ぶ幼少時の足利尊氏・直義ブラザーズが、流木の破片を海に投げて、それが右に流れるか左に流れるか当てっこする場面があります。で、あきらかに論理的思考能力で劣るっぽい尊氏のほうが、なぜか的中率が高い。そして後年、紆余曲折ありながら乱世を兄弟タッグで成り上がってゆく過程で、誰の目にも直義の優秀さこそ明確でありながら、真に肝心なトコで神采配を見せつけるのは、なぜかいつも尊氏! 敵を翻弄しつつ味方を脱力させたり狂喜させたりする足利尊氏、お前は一体何なんだ? というところが無茶苦茶おもしろい。冒頭の浜辺のアレって、尊氏が複雑系・カオス力学的な構造が何故か無自覚に視えてしまう人間であることを象徴的に示す場面だと感じたのですよ。

杉江 おお、なるほどね。

マライ 足利尊氏は、非言語的な知力で、プロセスや説明抜きに最良の蓋然性をはじき出してしまう、まさに乱世で台頭するのに最適なビッグデータ処理能力を持つんだけど、その確からしさを周囲にうまく説明する能力を欠いている。ここで実務面を補完するのが足利直義や高師直であり、要するに、優秀な神官・官僚に支えられたプチ神託システムみたいなものが上手く機能する奇跡の数年間があったからこそ、ポスト鎌倉政権争奪パワーゲームにて、足利尊氏は万馬券ダークホースながら勝利をおさめ、幕府を開いて歴史に名を残すに至ったのだ! と考えるとこれは凄い。すごすぎる。まさに史実と本格歴史小説とSFのハイレベル融合です。発達障害的な才能とは何か、を考えさせる余地があるのもいい。また、尊氏を支える神官たちの頭脳戦の苦労が史実ベースで深く描かれるあたり、異能系でありながらいわゆる伝奇ファンタジーを超える面白味に満ちていて、その面でも素晴らしい……と、思っていたら。

杉江 (笑)。

マライ 実は著者自身にはそういうコンセプト認識はあまり無いみたいで、「尊氏の自意識は現代人の虚無性に相似している」みたいなことを書いてるんですね。尊氏の特質についても、「ベタな共感性をベースとしたサーヴァント型リーダーシップの成功例」みたく捉えているっぽい。人生の後半というか晩年に至って、足利尊氏は実務型リーダーとして自覚的に動くようになるんですけど、それについて「ようやく人間として完成してきた」みたく評している。個人的にはむしろ逆で、へたに論理脳を駆動させた副作用で天然のビッグデータ処理能力が下がったような気がしてならない。そこでいろいろ裏目に出て観応の擾乱をちゃんと収拾できなかったのが負の遺産として大きいわけで。まあ、とはいえこのへんは読者や批評家が偉そうに言える話ではない。言ってもしょうがないことは重々承知しているのですが、やはり、あそこでもう一歩踏み込んでいたら歴史に残る大勝利だったのに! という残念さは消せません。

杉江 あ、そうそう。尊氏は現代人によく似ている、のところで声が出ました。「違うだろ」って。あそこがいちばんの欠点だな。だって、あんなおおらかな現代人はいませんよ。

マライ せっかくすごいSF感だったのにあそこでビジネス書っぽくなってしまった。

杉江 私もマライさんと同感で、尊氏の何も考えていないがゆえに全体が見えてしまう巨視眼というのがこの小説のいいところだと思いました。これは中国歴史小説からの伝統で、大人(たいじん)は最後に勝つというのがあると思うんですよね。

マライ 項羽と劉邦の劉邦(漢の高祖)みたいな。

杉江 そうそう。いつもぼんやりしていると言われている人間がおおらかに誰でも許すものだから味方がついてきて、そのうちに勝ってしまうという。尊氏をそういう典型に当てはめて、なぜそれが可能になったというのを分析型の脇役二人に説明させるという叙述システムがいいと思ったんですよ。史実における足利尊氏って本当になんで英雄になったかよくわからない人なんですよね。

マライ 足利陣営の最高幹部たちが願掛けに清水寺に行く場面で、尊氏が「もうオレは引退して、面倒なことはぜんぶ直義にやらせたいです!」って内容の書き物を奉納しようとして身内から総ツッコミを食らう場面があるじゃないですか。あれはさすがにフィクションだろうと思ったら、よりによって史実らしいですね。文書も残っているという(笑)。事実は小説より奇なり。大槻ケンヂ氏が、梶原一騎伝説の「これはいくら何でもウソだろ」と思ったエピソードに限って事実だった! と述べていたのが思い出されます(笑)

杉江 ああいう人なんですよ。何もしなかったがゆえに最後に勝つという不思議な英雄を書いた小説というのは珍しいので、そこに価値があると思うんです。特に私がいいと思ったのは終章です。尊氏と直義はあれほど仲のいい兄弟だったのに仲違いする。直義はあろうことか自分が滅ぼそうとした南朝と手を結んでしまう。腹心の部下であった高兄弟とも対立して闘うことになる。つまり誰が善で誰が悪かわからない、ぐちゃぐちゃの状態が南北朝時代なんです。イギリスの薔薇戦争とかにかなり近いですね。あそこまでてのひら返しが頻繁におきる時代って日本歴史の中であまりないので、『太平記』って建武の新政以降を書くのが大変なんです。尊氏は英雄に見えないから。なのにちゃんと、尊氏が最終的にはいちばん凄かった、という結論を維持してそのぐちゃぐちゃを書いたのが凄い。『太平記』小説史上に残る快挙だと思います。

マライ そこは賛否相半ばする印象ですね。総括の所見としては大賛成なんですけど、この小説、さすがにちょっと長すぎだと思うんです。長くて飽きさせないんだったらいいけど、特に後半、観応の擾乱から以降とか、敵味方の離合集散が激しい上に似たような名前の人がいっぱい出てきて、しかも戦略・戦術的に印象的でもない戦いがだらだらと続く。それをけっこう丁寧に追っているから、正直しんどいんですよね、武家マニア以外の読者にとっては。逆に、戦国末期とか源平合戦みたいな「キャラ立ちとメリハリのある」戦乱期間がなぜ恒常的な人気を誇るのか、その現実的な理由がよくわかった気がします(笑)。

杉江 だから太平記小説って完結しないことが多いんですよ、吉川英治みたいに。太平記を書くと完成しないで死ぬ、と言われることもあります。でも、よくがんばりましたよ。

マライ 「現代人に似ている」の箇所が無かったら、私もワンチャン一押しだったかもしれない。

マライ「もう一歩踏み込んでいたら歴史に残る大勝利だったのに!」

高野和明『踏切の幽霊』鉄オタ萌えという新路線

踏切の幽霊
『踏切の幽霊』
高野 和明 / 文藝春秋 / 1,503円(税込)
あらすじ
小田急線下北沢の踏切に現れる影は1年前に殺された女性の霊なのか。元社会部記者の松田は取材の命を受け、故人について調べ始める。殺人事件の被害者であるにもかかわらず、その女性はいまだ身元不明のままだった。
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マライ これもホラー系ですね。しかし1994年に時代設定した意味はどこにあるのか、よくわかりませんでした。 インターネットやスマホが無いから足で稼ぐ調査活動の描写がよりドラマチックになる、ぐらいしか思いつかないのですよ。走行中の小田急ロマンスカーの運転士の所作がマニアックかつ自然に描かれる導入部はすんごく良いと思ったのですが、これはいまどきの心霊譚としてどうなんでしょう。最近の作品基準から見ると、正直、時代設定ウンヌンという話とは無関係に、本作の「日陰人生のせつなさと秘められた親子の絆、それを掘り起こすベテラン記者と刑事の義理人情!」という内容ベクトルでは、あまりいけてるツボを突けない気がするのです。

杉江 1994年にしちゃった段階でちょっとねえ。今なら絶対5ちゃんねるとかSNSで幽霊の目撃譚を漁りますよね。それがない中途半端な昔の風説を書いても、今の読者には皮膚感覚で通じないでしょう。

マライ 古臭さはガジェット面だけでないですね。最近は怪異について、人間的な情の発露に由来する説話的な文脈と見せかけて実はそれでは回収しきれない、よくよく解析してみると異質で得体の知れない道理に沿って何かが動いているらしい、という展開がジャンルホラーでも目立っていて、要するに単純な還元をしなくなったように感じます。鈴木光司『リング』(角川ホラー文庫)が良かったのも実はそのへんのツボを押さえていたからで、呪術的なお約束文脈を超えた貞子の理不尽さと、その果てに浮き彫りになるメカニズムの凄みがあったからでしょう。そういった現代的な基準から見ると、本作は「えええ、これがゴールなの?」という印象になってしまう。リアル推理と心霊ドラマの融合を高次で成し遂げた! みたいな話だったらジョン・ディクスン・カーの『火刑法廷』のほうが凄いのですけど、今もクラシカルな人情系ホラーが好きな人が多いんですか。

杉江 『火刑法廷』と比べるのはさすがに気の毒でしょう(笑)。記者として一回は死んだも同然の存在になった主人公が、気が進まなかった取材を続けているうちにだんだん蘇ってくるという中盤はすごくいいんですよ。一回会ったっきりのキャバクラ嬢が本当のことを教えてくれるだろうか、とかいろいろ疑問はあるんだけど、捜査小説としては十分にやっています。ただ後半で書かれる悲劇の、型にはまったような感じがちょっと私は駄目でしたねえ。いちばん好きなのはやはり最初の小田急線の運転手視点のところです。あの運転手が轢いちゃったかもしれない女性を捜す話にしてくれればよかったのに。運転勤務の傍ら聞き込みをする小田急社員という設定なら燃えましたよ。

マライ 鉄オタ萌えという新路線(笑)。

月村了衛『香港警察東京分室』三つのアクションがそれぞれ違う感じなのがいい

香港警察東京分室
『香港警察東京分室』
月村 了衛 / 小学館 / 1,980円(税込)
あらすじ
日本と香港警察共同の分室が設けられることになった。最初の使命は殺人罪で追われる元大学教授の身柄確保だ。彼女は民主活動家であり、政治犯として香港側は狙っているのではないかという疑いを日本側は捨てきれない。
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マライ 日本人がすごく気にしている「中国の権力構造」、その強権性のウラオモテみたいなものをピックアップし、アクションエンタメ文脈に再構築する手際が見事でした。特に香港の捜査官が日本の捜査官と一対一でペアを組まされるあたり、双方のキャラ立ちと葛藤とバディ感が絶妙でよいなと思いました。犯罪と戦うよりも捜査官と官僚文化との戦いがメインという説もありますね。そして中国の2つの勢力の暗闘、そのどちらが善玉なのか? という見極めに読者を誘導していく展開とそのオチも、権謀術数パワーゲームの魔窟的リアリティを香らせていてよいです。

杉江 キャラクターが無茶苦茶多いんですけど、全員自己紹介みたいなことをしないまま話が動き出しますね。それでも読んでいるうちにキャラクターが判別できるようになる。あの書き分けは上手いと思います。アクションもいきなり始まって、どんどこエスカレートしていきますよね。三つのアクションがそれぞれ違う感じなのがいいです。使い回しをしないし、舞台に凝っているんですよね。

マライ 個人的にやや気になったのが、中国側のキャラクターが、よく考えて造形されているとは思うのだけど、行動原理が日本人の内的言語で完全に説明・納得可能な感じになっている点ですね。現代中国ウォッチャーとして著名な安田峰俊さんと議論したり彼の著作を読んだりすると感じるのだけど、本作に登場するような中国の法執行官の行動や心理って、八割は納得可能だけど二割は謎のまま残るかもしれない。むしろその二割にこそ面白さの精髄がありそうな気がします。

杉江 ああ。そこは日本人の考えた中国官僚ではないですか、という批判は建設的ですね。私は詳しくないので判断は控えますが。

マライ エンタメとして及第点だとは思うのですが、『テスカトリポカ』とかはそのへん凄かった印象があります。

杉江 前回の直木賞となった『地図と拳』の小川哲さんも、中国の取材旅行に行った際、まず地図の縮尺が違うというところから始めないと駄目だ、と思ったそうです。国際的な規模を持つ小説の場合は大事な感覚でしょうね。〈機龍警察〉シリーズを読めばわかりますけど、月村さんはル・カレが世界を描ききっていた、かつてのスパイ小説、冒険小説をなんとかして現代に復活させようとしている人なんです。だからさまざまな形で読者を開拓する試みをしていて、これはいちばんアクション寄りというか、プログラム・ピクチャー的なわかりやすさで書いていますよね。こういう冒険小説が大衆小説として評価される直木賞であってもらいたいなあ。

杉江「こういう冒険小説が大衆小説として評価される直木賞であってもらいたい」

永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』受賞の目は十分あるが……

木挽町のあだ討ち
『木挽町のあだ討ち』
永井 紗耶子 / 新潮社 / 1,870円(税込)
あらすじ
芝居小屋のある木挽町で起きた仇討ち。若侍・菊之助はいかにして父の仇を取ったのか。事件から2年後、謎の侍によって行われる聞き取り調査が意外な真実を浮かび上がらせる。芝居小屋周辺で生きる人々の見たものは。
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マライ 理不尽なルールや不文律に満ちた環境の中で、真に道理と道義を貫く道とは! というテーマを彫り込んだ、パズル的心理サスペンス小説です。前に直木賞候補になった『女人入眼』については、杉江さんが構成や流れについていささか苦言を呈していらっしゃいましたが、そのへん今回はかなり良い出来栄えになっているのではないでしょうか。美的というか鮮やかというか、佇まいの端正さが印象的です。心理描写の鋭さと間接話法を含むコミュニケーション描写の繊細な上質さが素晴らしい。これは天然な資質ですね。本作では、江戸のアウトサイダー民たちの知恵が、幕臣的な石頭というか教条的な価値観を出し抜く痛快さがひとつのポイントで、そのアウトサイダー陣営の価値観を、LGBTQ的側面も含めて現代の多文化主義的な理性に寄せている印象があります。私は興味深い演出だなと感じたのですが、この味付けについてはひょっとして賛否あるかもしれません。

杉江 木挽町、つまり芝居小屋のひとびとは江戸の社会におけるアウトサイダーで、その住人たちの協力があることを成し遂げるという小説ですよね。役者をあえて中心にしないで、その周辺の人々、殺陣師だとか衣装の縫子だとかを語り手に起用して輪郭から芝居小屋という世界を浮かび上がらせる技法が使われています。それは成功していて、いい作品だし、山本賞も獲れてよかったと思うんだけど、直木賞としてはどうかという疑問があるんです。これは他のところでも書きましたが、第137回を受賞した松井今朝子『吉原手引草』(幻冬舎文庫)とかなり構造が似ているんですよ。あまり細かく書くとネタばらしになっちゃうので省きますが、かなり類似点の多い作品でもう一度直木賞を獲らせるかなあ、という疑問があるんです。それでどうも推し切れない。

マライ なるほど。サブカル寄りの日本文化に外部から関心を持つ者としてひとつ考えさせられたのが、人命をあえて軽視することでミッションを成立させる「寒到来」という話が『子連れ狼』(小池一夫原作・小島剛夕画)の中にあって、あの理不尽な道理を突きつけられた衝撃が忘れられないんですよ。『子連れ狼』はタランティーノが激賞したことでも有名ですけど、彼が称賛したポイントというのは現代的理性では割り切れないサムライ的規範をめぐる葛藤と、その盤石さだったのではないかなと。そう考えると、本作はドラマとしての完成度で素晴らしい反面、価値基準的インパクトという点でやや弱い印象があります。その面で『女人入眼』の、世界のパワーゲーム化に直面し、その行く末を知覚してしまった京の女官の物語は凄かった。

杉江 江戸時代というのは生き死にに関して理不尽な倫理があって、そこから逃げられないシステムですよね。そこに向き合う小説ではないでしょう。『女人入眼』は権力ゲームの中で個人の生が押しつぶされていく話でしたから、その巨視性はない。ただ、こういう庶民の人情に寄り添う時代小説は、過去の直木賞受賞作にも多いんですよね。第126回の山本一力『あかね空』(文春文庫)とか、最近だと第164回の西條奈加『心淋し川』(集英社文庫)とか。だから受賞の目は十分あると思うんですよ。

マライ「価値基準的インパクトという点でやや弱い印象があります」

直木賞候補作総括●ちゃんと若手を採り上げたほうがいい

杉江 今私は、朝日新聞社の「好書好日」というサイトで「日出る処のニューヒット」という連載をやっていまして、次の直木賞候補になりそうな作品を挙げていくというものなんですが、時代小説ファンがみんな大好きな砂原浩太朗『藩邸差配役日日控』(文藝春秋)は確実だと思っていたんですよ。あと、上半期だと新人・宮島未奈『成瀬は天下を取りに行く』(新潮社)なんかも試しに一回候補にしてみてもよかったんじゃないかと思います。芸能人とか知名度のある書き手以外も、ちゃんと若手を採り上げたほうがいいですよ。スターを自前で育てないと。今回も相変わらず直木賞は作品選定が今一つよくわからない感じでした。芥川賞はだいたい文句ないのになあ。

マライ 今回は候補5作中、ホラー的な作品が2作入っていたのが興味深いです。単なる偶然かもしれないが、私自身が実感している、他媒体含めた実話怪談/都市伝説ホラー系コンテンツの上げ潮感を受けてのことかもしれません。実は私は、映像クリエイター業界で絶賛されている動画ホラーコンテンツ『フェイクドキュメンタリー「Q」』のクリエイターを取材したこともあるのですが日本の先端ホラーというのは、クリエイターと観客の「文脈の読み合い勝負」がすさまじいことになっていて、そのへんにガチで取り組む層から、フィクションとメタフィクションが高次で融合したような凄いコンテンツが出現しているらしいことがわかります。もし今回、そういう生々しい「闘気」に満ちた本格ホラーが直木賞に殴り込みをかけてきていたら、『黒牢城』や『テスカトリポカ』に並ぶ大興奮・大推し作品として盛り上がれたのかもしれないですが、なかなか難しいですね。実話怪談とかの業界から、何かのはずみで才人が「主流エンタメ文芸」の領域に転がり込んでくる展開も中長期的に期待したいところです。いま日本のホラー業界は現代的語り手の才能の登竜門的な存在になっている感触があり、見のがせません。

芥川賞予想対談も!

今回から「WEB本の雑誌」にお世話になって、芥川・直木賞予想対談をすることになりました。どうぞよろしく。〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mが7月19日に選考会が行われる第169回芥川・直木賞を語り倒しますよ。今回、強力な候補作が話題を呼んでいる芥川賞の予想はどうりますか。