第170回芥川賞選評を読んで徹底対談。マライ「『東京都同情塔』の選評に“言い切りの回避”を感じる」杉江「『アイスネルワイゼン』の落選は普通のエンタメっぽすぎるからか」
選評を読むまでが芥川賞。ということで『文藝春秋』(2024年3月号)に掲載される選評(選考委員/小川洋子・奥泉光・川上弘美・島田雅彦・平野啓一郎・堀江敏幸・松浦寿輝・山田詠美・吉田修一)を読んで〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mがあれこれ考える対談がやってまいりました。3月10日にひそかに行われた対談の模様をお伝えいたします。第170回芥川を深掘りしますよ。直木賞選評編はコチラ。
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■第170回芥川龍之介賞候補作
安堂ホセ「迷彩色の男」(「文藝」2023年秋季号)2回目
川野芽生「Blue』(「すばる」8月号)初
九段理江「東京都同情塔」(「新潮」2023年12月号)2回目→受賞
小砂川チト「猿の戴冠式」(「群像」2023年12月号)2回目
三木三奈「アイスネルワイゼン」(「文學界」2023年10月号)2回目
- 目次
- ▼受賞作「東京都同情塔」(九段理江)選評に「尻込み感」がある?
- ▼「迷彩色の男」(安堂ホセ)前回候補作に似ているというマイナス評価
- ▼「Blue」(川野芽生)選考委員のジェンダー知識が更新されていない?
- ▼小砂川チト「猿の戴冠式」後半の暴走展開の評価は?
- ▼「アイスネルワイゼン」(三木三奈)評価は悪くないのに、全般的に点が低い不思議
- ▼芥川賞選評総括●批評家はAIの本質について知る必要がある、作家以上に
受賞作「東京都同情塔」(九段理江)選評に「尻込み感」がある?
杉江松恋(以下、杉江) 安定の評価を得た受賞作です。作者の九段さんが一部の文章をチャットGPTに書かせたと明かしたことで、見出しだけで記事の内容を読まない人たちが、ついにAIの書いた小説が芥川賞を獲った、と騒いだことで変に注目されるというおまけまでついてしまいました。マライさんがここのところ注目されている『X』の世も末ぶりが露呈されたというか。
マライ・メントライン(以下、マライ) そうなんです。チャットGPTにあっさり淘汰されかねない「人間の書き手」がいっぱい居てしまう電脳ワールド的現実を浮き彫りにした点で、本作も本作が起こした現象も、ともになかなか興味深いといえます(笑)。
杉江 この作品は題材から旧約聖書、特にバベルの塔建設における言語の問題が浮上してくるという構造を持っています。そこに“生成AIがなすような言語の平準化が押し広がり、人間は対話性を失い、まさに世界がばらばらになりつつある”(奥泉光)日本の現在を重ね合わせて“エンターテイメント性と批評性のバランスが大変良く”(吉田修一)、かつ“作者は正解をだしてほしいのではないからです。作者たぶん、ただ、考えてほしいのです”(川上弘美)という押しつけがましくない構想デザインの良さが評価されたように思われます。
マライ 前回(169回)受賞作「ハンチバック」(市川沙央/文藝春秋) が「身体性」の生々しさを極めていたことの反動で、「観念性」を極めた本作がそもそも有利だったのではないでしょうか。表立って誰も明言はしていませんが。というのも、AI生成文章や情報洪水といった半電脳的な現実、乱立する価値観の余裕の無さ&終わらないゆらぎ、そしてその中で建設されるバベルの塔のシンボル性の深み、といった本作の要点についてリアルスケールでビシッと語れているのは平野啓一郎氏と松浦寿輝氏ぐらいで、ほかの諸氏は何やら絶妙にふわっとした感じなんですね。そこが『ハンチバック』のときと凄く異なるのが印象的です。選評も、核心ではなく辺縁部をなぞっている感が目立ちました。
杉江 たぶんテクノロジーについて語るということへの尻込みがあるからなんじゃないかな、と思いました。
マライ そうです。その尻込み感と「言い切りの回避」ですね。
杉江 吉田修一がバランスの良さについて発言しているように、あくまで小説として表現されているかどうか、が選考ポイントなのだと思います。選考委員は文明評論として本作を読んでいるわけではない、という前提が随所に出てきます。そこがマライさんの感じられる本質性に斬りこまないもどかしさじゃないかと思います。
マライ なるほどです。しかしそれでは作品の威力を減殺させてしまう。
杉江 バベルの塔という聖書モチーフに惹きつけて、本作を言語小説として読もうとしている選考委員も多かったはずですね。奥泉光が、言語がコミュニケーションツールとしての有効性を失っている点を現実の似姿として書いている、という趣旨のことを書いていますが、そのくらいが小説の持ち場所ではないかという思いがあるのではないかと考えます。
マライ 確かにそうです。だからなんというか、日々お仕事でチャットGPTの活用方法を模索して格闘している身からすると、いまいち刺さらない印象があります。選考委員は、社会現象に対しての「文芸業界としてのスタンス」を明示したという面もあるのでしょうね。そのなかで平野啓一郎氏と松浦寿輝氏のは評言は良かった。特に平野評は、全方位的に強力なんですよ。あれはなんだか尋常じゃない。
杉江 『金閣寺』を例に引いていましたね。人間が世界を言語で再構築することについての小説だという読みなんでしょう。ちょうど『三島由紀夫論』(新潮社)を書き終わったばかりだったから、ミシマが乗り移っていたんじゃないですかね(笑)。あと、松浦さんはミシェル・フーコーの『監獄の誕生』(新潮社)について言及しています。
マライ あれもよかったです。やはりモノゴトの掌中度は、喩え話の運用の仕方で浮き彫りになります。
杉江 監獄は、人間が言語によってすべてを支配下に置くことの比喩だと思うんですけど、それにしては実際の箱である塔をちゃんと書いてないじゃん、と言っているのが奥泉だと思うんです。塔の実際を書かないとこの小説は完成しないんじゃないかな、と私は思っていたんですけど、奥泉さんが言いたかったことを言ってくれた気がしました(“ただ近未来SF風の枠組を用いつつこの文体で書くなら、犯罪者が「幸福に」暮らすという塔の具体的な成り立ち、仕組についても描いてほしい”)。
マライ 言語運用の主体が人間か非人間か、あるいは未定義の何かなのか、という点に踏み込むことがおそらく重要で、その文脈をどう構築するかですね。ここは、どういう文脈をもともと重視していたかで私と杉江さんの見解が分かれましたね。
杉江 分かれた、というのは文学的な要素か、その上に載っている観念を相手取るかということですか。
マライ そうそう。そこが面白い。「刺さる」「わかってる」と感じる座標の違いがそこに出ているのでしょう。
杉江 私は作品が小説としてどう書かれるかが興味の中心なんですよ。たとえば本作の文章に関して、小川洋子さんが人間らしさが感じられないことへの違和感を表明もしていることや、山田詠美さんが抑制の効いた詩情を評価していること(“硬質でAIっぽい文章が続く中、時折、叙情的なパートが魅力的に浮き上がる”)に興味を惹かれます。
マライ それは逆に、あんまし刺さらないんですよね。文学賞本来の見立てとしては杉江さんのほうが正解だと思うのです。しかしそれだけでない文壇外部の人間はどう見ているのか、という話ですね。
杉江 そこがマライさんと私の出発点の違いみたいなものですね。これまでの対談でも何度か出てきた。うん。違っていて面白い。
「迷彩色の男」(安堂ホセ)前回候補作に似ているというマイナス評価
杉江 小説の疾走感についてはおおむね選考委員の意見が一致して称賛されていました。文章が持つイメージの喚起力についても好意を感じている選考委員が多かったと思います。反面、一行空けを多様したスタイルについては、“この種のスタイルが効果的に働くのは、その余白を言葉で埋め尽くす気概があってこそ。雰囲気作りや、イン・ザ・ムードの演出のために空白を利用してはならない”(山田)、“記述の断片化は、血と肉をそなえた影絵という語義矛盾を貫くための一時的な手法として有効”(堀江敏幸)と賛否両論でした。小説のテーマに関しては、個人的には平野さんの“「ヘイトクライム」の犯人が無差別的で、反社会性人格障害のように設定されている点も疑問が残った”という意見が特に傾聴に値すると思います。
マライ わりとアツい言及が多かったですね。しかし前作「ジャクソンひとり」(河出書房新社/168回候補作)に似ているというマイナス評価の目立ち方が印象的です。また、身体性の生々しさをメインウェポンとしている点が前回受賞作(しかも圧倒的衝撃作)『ハンチバック』と被る、ということで潜在的に不利になった面があるかもしれません。
杉江 さすがに他人の作品と被るからダメ、とは言えないとは思うんですよ。
マライ まあ、そうでしょうね。文芸賞としては「前の候補作と似てるじゃん」という点はやはり不利なんでしょうか。
杉江 そういうことはあるとは思います。前作に比べて進展がないということだったら。ただ、私は実は「ジャクソンひとり」と「迷彩色の男」がそんなに似ていると思わなかったんですよね。選評であそこまで言われるのはちょっと意外でした。
マライ 私は「似てるじゃん」が出るだろうな、とは薄々思っていました。やはり「アフリカ系で美しくてゲイ」という表面要素の類似性が目立ってしまう。
杉江 また平野さんですけど“殊に複数人が、交換可能性と不可能性のあわいで肉体的に交わり合う場面は特筆すべきである”と書いています。キャラクターが人称のない存在になって交換されるくだりは「ジャクソンひとり」にも「迷彩色の男」にも確かにありますけど、それだけで類似と決めつけるのはどうなのかと思います。使い方も意味も違うわけだし。あと、吉田修一が“ハッテンバから出てみようか”と書いているのもちょっとわからないですよね。前後の文脈がないので、意味をとりづらい一文で。
マライ あれは、よくあの形で出したなと思います。
杉江 作者が自分の置かれた立場とかセクシャリティを拠点にして書き続けるのは別にいけないことではないと思うんですよね。
マライ 同感です。でも結局、安堂ホセさんは、よほど毛色の変わったものを書かないと「前のと似ている」と文芸中枢からも言われてしまうんですよ。
杉江 そうでしょうね。なので、これも平野さんの、ヘイトクライムの犯人を画一的に書くことへの危惧は指摘としてもっともだと思いました。それだと、あっちとこっちで陣営を分けることにならないか、という意味だと思うんです。それが続いていくと小説が思想ビラを増刷していくような感じになってしまうので「同じ」という批判が出てきてもやむをえない。
マライ 皆がそのレベルで語れればいいのですが難しい。書き手にとってはそれなりのトラウマも絡んでそうですし、なかなか厄介です。こうしたことに関して書き手の「表現」と「主張」を分けて考えられる読者や評者は少ないですよ。
「Blue」(川野芽生)選考委員のジェンダー知識が更新されていない?
杉江 “さほど新味のない脚本を、癖の強い役者たちが熱演しているような印象”(吉田)というように、総じて厳しい意見が目立ちました。キャラクターが単なる役割分担になっているという山田さんの指摘(“他者との差異をまずジェンダーありきでとらえ過ぎて、登場人物それぞれの個別の本質をつかんで書き分けていないからではないか”)や奥泉さんのカテゴリーエラーをにおわせる発言(“どこかアニメーションフィルムを思わせるものがあって”)は特に印象に残りましたね。
マライ 奥泉光氏の「アニメーションだったらよりよかったのでは」というのは、アニメを尊重しているのか下に見ているのかニュートラルな感想なのか、いまいちよくわからないんですがどうでしょうね。「既知の景色しか出てこなかった」のがあかんかった、というのが選評全体のトーンです。
杉江 書き手の意図とは別に、ありそうな青春小説の題材ではあるんですよね。喪失感を漂わせておけばなんでもいい話っぽく見えるけどそれだけでいいの、と選考委員は言いたげな感じがします。
マライ ちょっと思ったんですけど、下読みから選考委員にあげる際に作品をピックアップしたポイントを紹介することはあるのですか。
杉江 新人賞ならやりますけど、芥川賞はやらないでしょう。変にそれをやると、読まないで判断されちゃう可能性がある、と思って控えると思います。
マライ ああ、だとすると、選評の微妙感の理由もわかりますね。深く語る言葉が限定されているというか、世間的な「最前線」の知識に価値を見出すべきかどうか、どう文芸的に再構築するかという点でどの作品評も微妙な感じがするのは、それが原因なのかも。
杉江 この作品について言うと、選考委員の側でジェンダーに関する知識が更新されていないということでしょうか。舞台の道具立てが実際はバージョンアップされているのに、選考委員は微妙に古いままで見ているということですかね。
マライ この作品は、登場人物に共感やエモ感を覚えなければアウトだと思うのです。
杉江 エモ感はどうも嫌われるっぽいんですよ。だって前回、あんなに胸を打つ小説だった乗代雄介「それは誠」(文藝春秋/169回候補作)が評価してもらえなかったぐらいですから。
小砂川チト「猿の戴冠式」後半の暴走展開の評価は?
杉江 前回候補になった「家庭用安心坑夫」(講談社/167回候補作)と同じように、本作に綴られるボノボの意識は人間の妄想として書かれている可能性があると思うのですけど、そのことについての指摘はなかったですね。選考委員はおおむね、あれはそのままボノボのものであるという認識です(松浦“高度な知能を持つ猿の内面が、「擬人化」された心理と感情の域を出ておらず、真の他者性の凄みが十分に表出されているとは言えない”、島田雅彦“もっとバディの心奥に入り込み、猿の無意識まで描くことができれば”)。松浦さんの言うように「東京都同情塔」と同様「人間」以外の他者とのコミュニケーションが前景化された作品で、自分の言葉があらかじめ奪われていてこの世界の中には存在しないという疎外感を主人公が抱く点がこの作品の要だと思いますが、それでもボノボの言葉が妄想に過ぎないという可能性は残して作品を評価してもよかったのではないかと私は思っています。もう一つ、これも前作同様、後半の暴走展開が評価されているが、書き手はもっと制御すべきだった、という意見も印象的でした(山田“後半、そのスピードが出過ぎたのか、ランナーズハイ状態になってじまった”)。
マライ 「Blue」と逆で「すごく魅力的な未知の景色を見せてくれようとしたけどやり方がいまいちだった」というのが選評全体のトーンだったと思います。後半部のユーモアのキレが悪い、という指摘があったのがさりげなく印象的です。ユーモアのキレは作者が作品で展開されるネタを完全に掌中にした際に発揮される気もするので、存外鋭い指摘であるような。私も小砂川さんのユーモア感覚はもともと好きなんですよ。
杉江 後半が「家庭用安心坑夫」ほど走れてなかった、という意見はそういうこともあるんでしょうね。
マライ 「暴走」を「覚醒」ではなく「逃げ」と捉えられた感はありますね。
杉江 ボノボと人間の共闘、みたいなところに行ったのも、いい話に逃げやがって、と嫌がられている気がします。もしかするともう小砂川さんは「これは主人公の妄想ですよっ」と大声で叫ぶ小説を出したほうがいいのかもしれない。
マライ そうなんですけどそれはそれで、ありがち感との勝負になる。やはりボノボをもっと「魅力的な異物」として表現すべきだったのでしょう。そのへん、選評に同感です。
杉江 たしかにボノボが『野性のエルザ』以来の「理解しやすいもう一人の人間」みたいな感じではあるんですよね。
マライ そこだ! そこで微妙に作品の黄昏が始まる。「ぱっと見成立しているように見えたコミュニケーションの深い不成立」の方が良かったんでしょうね。
杉江 言語の小説として見た場合も、ボノボと人間だとちょっと既視感が出てしまうかもしれないです。相手がダイオウグソクムシとかだったらいいのか。人形、ボノボと来て、だんだん人間からは離れているんですけどね。
マライ でもやっぱり構造が弱いというか「突破してない」感がまずかったか。
杉江 山田さんが「逆走しちゃえばよかった」と言っているのはそこなんでしょうね。
「アイスネルワイゼン」(三木三奈)評価は悪くないのに、全般的に点が低い不思議
杉江 受賞予想対談ではマライ・杉江共通でお気に入りにした作品です。各委員の評価は悪くないし、それぞれが異なる観点から小説の良さについて書いている。たとえば語りの技巧(平野“リーダブルな会話とエピソードを重ねつつ、微妙な違和感を増幅させてゆくことで、主人公の“生きづらさ”を巧みに描いている”)、主人公への違和感や割り切れない人物造形(吉田“彼女=暴力であり、それがうまく機能している”、“主人公も含め登場人物たち全てが、好きじゃないのに嫌いになれない人であり、嫌いじゃないのに好きになれない人たち”)、そしてサスペンスの要素(川上“いやすぎる……でも、どこかでこういう状況に、自分も入りこんでしまった記憶がある……と感じさせる”)と個々の技巧については評価は悪くないのに、なぜか全般的には点が低いという不思議な選評でした。批判も当たり障りがなくて(小川“もっと冷徹な視点を持つことができたら”、島田“負の連鎖の果てに予想外の境地に達して欲しかった”)もどかしいんですけど、山田さんの選評だけはぶった切るもので作者には気の毒ですけどおもしろい。それに対して、後で言いますけど堀江さんは何を言いたいのかよくわからない。“ふつうの風俗心理小説を越えていない”(松浦)、“コミュニケーション障害の通念に過不足なく収まり過ぎており”(平野)といった声をまとめると要するに、これは普通のエンタメじゃん、と言いたいのかもしれません。
マライ 高評価な要素はあるけど、「Blue」と同様、「既知の景色しか出てこなかった」のがあかんかった、ということなのか。選考委員の皆様的には本作、またかよこのネタ、食傷やな……という感じなのでしょうか。
杉江 普通のエンタメっぽすぎるじゃん、が本音じゃないですかね。奥泉さんもカギカッコ会話の多用が合わないって言っていますしね。芥川賞はこういう傾向の作品だと獲らせないよ、と暗に言っている気がする。
マライ とはいえ選考委員の「誰かに刺されば」まったく違ったかも、とは思うんです。しかし実際そうならなかった以上、やはり尖っていてしかも突破力のある高射砲塔、じゃない(予想対談参照)「同情塔」が有利、という話になるわけですよ。
杉江 やっぱり芥川賞は文芸界のランドマークですから。まあ、全般的には納得なんですけど、堀江さんの選評で解せないことが一つだけあるんですよ。
マライ なんでしょう。
杉江 “全体に流れているのは、鍵盤ではなくて弦、それも琴の十三弦ではなく、少し湿った三弦の音だ”(堀江)。これ三味線のことですよね。“結末に用意された涙を受け入れられるのはそのせいかもしれない”(堀江)って要するに「三味線伴奏の浪曲だからねこの作品は」って言いたいわけでしょ。浪花節ヘイトだ!
マライ ウケます!!!!!!
杉江 こんな浪曲ファンにしか受けない選評を書いてくれてありがとう。そして堀江さんが浪曲をあまりお好きではなさそうだということもわかりました(笑)。
マライ どれくらいマジな話なんでしょうね、堀江さんのアレは。
杉江 冗談だとしたら浪曲ファンの私にしか刺さらないから駄目だと思います。浪花節では芥川賞は取れないよ、というのはまあ正しい気がします。
マライ 杉江さんがうまいことを言った!
芥川賞選評総括●批評家はAIの本質について知る必要がある、作家以上に
マライ 選評を通じて「東京都同情塔」の、文芸的な画期性や存在意義についての認識が圧倒的に深まった気がします。というのも、「文芸的ヒエラルキーのどこにも位置しない」けど、広義の文芸業界として中長期的に「無視は絶対に出来ない」AI生成文章とその背景に存在する人間/非人間的思考という問題を、一気にテーマ化しおおせた作品なのだ! ということが浮き彫りになったからです。そしてそれが芥川賞を獲ってしまった。非人間/亜人間/脱人間的なメカニズムと文芸の接点とは何か。ある意味、東日本大震災のあとでブンガクは可能か? 的な苦悩よりも深く致命的な何かが蠢いている気がしないでもない。ということで、たとえばこのテーマについては、作家以上に批評家が、AIの本質や効能や危険性についてそれなりの知見や見識を有していないと(文芸的にも社会的にも)お話にならない気がするので、そのあたり今後どうなるのだろう、と考えさせられる第170回芥川賞「選評」でした。
杉江 技術が文芸界のずっと先に行ってしまっている現実という話では、上田岳弘『ニムロッド』(講談社)が受賞した第160回を思い出しました。恥ずかしながら私、あの仮想通貨ってやつの仕組みを今でもよく理解できていないんですよね。今回の芥川賞は言語の小説が多く候補に上がりました。言語が人間のものであるか、身体の延長でありえているか、という問題が芥川賞でどう扱われるかについては今後も注意し続けていきたいと思います。