第170回直木賞受賞予想。杉江「激戦を制するのは、加藤シゲアキ『なれのはて』と『ともぐい』か」マライ「『八月の御所グラウンド』『ラウリ・クースクを探して』も推したい」

第169回からweb本の雑誌に移籍した芥川・直木賞予想対談、今回もやりますよ。〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mが1月17日に選考会が行われる第170回芥川・直木賞を深掘りします(直木賞選考委員は、浅田次郎・角田光代・京極夏彦・桐野夏生・髙村薫・林真理子・三浦しをん・宮部みゆき)。芥川賞編はコチラ

■第170回直木賞候補作
加藤シゲアキ『なれのはて』(講談社)2回目
河﨑秋子『ともぐい』(新潮社)2回目
嶋津輝『襷がけの二人』(文藝春秋)初
万城目学『八月の御所グラウンド』(文藝春秋)6回目
宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』(朝日新聞出版)4回目
村木嵐『まいまいつぶろ』(幻冬舎)初

目次
▼加藤シゲアキ『なれのはて』読者を育ててきた作家に文芸界は感謝すべき
▼河﨑秋子『ともぐい』コミュニケーションの極北で孤高の火柱を上げている
▼嶋津輝『襷がけの二人』一つの民俗・都市文化を集中して描いた点でも評価高い
▼万城目学『八月の御所グラウンド』ジャンル文脈を心地よく裏切る感がよい
▼宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』あらゆる知的角度からの鑑賞に堪える
▼村木嵐『まいまいつぶろ』家重と忠光の麗しい主従関係を愛でる小説
▼直木賞候補作総括●予想以上にいけてる、やればできるじゃん

加藤シゲアキ『なれのはて』読者を育ててきた作家に文芸界は感謝すべき

杉江松恋(以下、杉江) こちらも、まずはそれぞれの受賞予想とイチ推しからです。

マライ・メントライン(以下、マライ) 今回は予想を超えてレベルの高い激戦だった感触です。ほぼ全作、前回候補に出ていたら個人的にイチ推しで挙げただろうという凄さでした。その中で『なれのはて』、『八月の御所グラウンド』、『ラウリ・クースクを探して』が二強+大穴という感じです。

杉江 私は受賞予想が『なれのはて』『ともぐい』で、イチ推しは『ともぐい』ですね。

なれのはて
『なれのはて』
加藤 シゲアキ / 講談社 / 2,145円(税込)
あらすじ
テレビ局のイベント事業部に異動した守谷は、後輩社員・吾妻と共に無名画家の展覧会を開こうと画策する。著作権に関して調べるため二人は、画家の故郷と思われる秋田市を訪ねる。
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マライ 文句なく面白かったです。情報や観点やネタを詰め込み過ぎという批判が出そうな気もしますが、それ以上に刺さる威力が強いし、読みやすかったのでノープロブレム。概要紹介だけだと、志の高いマスコミ人が戦時秘話と陰謀を掘り起こす系のありがちな情緒寄り現代史ミステリーっぽく見えてしまうんですが、読むとぜんぜん違う。執筆にあたって社会史的、産業史的な取材を綿密に行ったフシもあってそこに感銘を受ける人も多いだろうけど、自分にとってポイントはそこじゃない。

杉江 作者が勉強したからえらい、ということではないと。同感です。

マライ 場面構築の材料には陳腐に見える要素がけっこう多いのですよ。途中に出てくる中ボス犯人のふるまいなどいわゆる二時間サスペンスドラマの情景そのまんまですし。でも、その犯人とかチョイ役っぽいキャラクターの人生にも、世界が何がしかの真理や美を垣間見せる瞬間があり、彼や彼女はそれをおぼろに感じ取っていたりするのだけど、人は往々にしてその真意を掴みそこねる。そういう球速差MAXの変化球攻めはナイスです。そんなこんなで、ぱっと見安っぽい材料をすごい使い方してみせる点に唸らずにいられない!

杉江 使われている技巧そのものはすでにあるものの寄せ集めなんですよ。

マライ そうそう。で、陳腐に見える要素は意図的に配置されたものであり、実際には既存エンタメの文脈パターンを先鋭化させたり改変して描くためのツイスト布石のような印象も受けます。読者の期待を適切な形で裏切る。そこに私はかなり感服しました。

杉江 実はじっくり読むことを要求する小説で、それぞれのキャラクターがなじむまで急がずにページをめくる必要がある。加藤さんはそれを自分の読者がしてくれると信じているんだろうな、と思います。そこも高得点ですね。

マライ ジャンルとしては一応ミステリーなんでしょうけど、謎解き要素が主眼かといえば疑問で、比較的多くの人が途中で真相を察しそうな気もする。でもそれで興が削がれることもないのが重要です。基本的に美と異能とカネをめぐる一族の強烈な恩讐の物語で、そこはかとなく伝奇的要素も介在しています。エグみと美学性の混淆した突き抜け方とかが横溝正史ワールドを彷彿とさせるものがあって興味深いです。横溝作品も、誰それが犯人だったとかよりも、強烈でハイレベルな美醜のミクスチャー感がファンの心に焼き付いている場合がありますよね。本作もそういう横溝作品的な、読者に愛される要素の再構築を視野に入れている可能性があります。業界プロパー的でない文芸の活性化とは、意外とこういう角度から起動するのかもしれない。

杉江 ミステリー的に言うと、最後に出てくる二時間サスペンス的なくだりは付け足しだと思いました。あそこはデザートですね。その前の事件の根幹に関わる部分が判明するくだりが本当のクライマックスで、そこまで振りまかれてきた違和感の正体が納得のいくものに変わるんです。そう言う構造はミステリーとして高く評価できる。

マライ もう一つ重要だなと感じたのが、アートの日常性というテーマに深く食い込んでいる点です。アートを感じ取れる人とそうでない人のコミュニケーションギャップという、あまり表面化しないけど重要な知的テーマが割と自然に語られています。おそらく加藤シゲアキの小説に固定ファンがいるということの重要性に文芸界は鈍感だと思うんですけど、彼の文芸文化への貢献というのは実際なかなかのものだと。有名人だから賞レースで有利だとか不利だとか、そういうつまらない話をしている場合ではないですよ。こういう才能をうまく活用できるかどうか、文芸界そのものの地頭の良し悪しが試される局面が遠からずやってくる気がします。

杉江 加藤シゲアキはね、自分の読者を育ててきたんです。初期には加藤シゲアキ風の主人公が出てくる作品で興味を持たせて、だんだんそうじゃない境地に行った。それについていっている読者は多数いるはずで、小説業界はすごく感謝すべきだと思います。加藤の姿勢は謙虚かつ真面目で、非常に好感が持てます。この人は小説を利用していないですよ。利用する人は年に一冊こつこつ小説を書いて十年やってこれないです。

マライ マジ報われてほしいですね。だからもし受賞したら、バラエティ番組とかで安っぽく紹介しないでほしい! 

河﨑秋子『ともぐい』コミュニケーションの極北で孤高の火柱を上げている

ともぐい
『ともぐい』
河﨑 秋子 / 新潮社 / 1,925円(税込)
あらすじ
北海道の山中で暮らす熊爪は、町の者と関わりを持とうとしない生れながらの猟師だ。ある日彼は、冬山で飢え狂暴化した熊が自分の山に入り込んだことを知り、狩ることを決意する。
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マライ 前回の『絞め殺しの樹』(小学館)を凌駕する凄さです。心身にわたる生々しい描写が連発されるので人を選ぶ作風ですが、私は推します。今回の各候補作は、コミュニケーションの問題がテーマ化もしくはサブテーマ化したものが多いように感じました。その極北で孤高の火柱を上げているのが本作といってよいでしょう。明治期北海道の未開発エリアで孤独に育った、『ゴールデンカムイ』とかに出てきてもおかしくなさそうな天然サバイバル生活人間が押し寄せる文明文化の波に触れてどうなるのか、という話です。まず重要なのが、コミュニケーション以前に現実及び環境の観測と定義で苦労する点です。主人公の、知能はあるが社会的文脈を欠いている初期属性が肝となっていろんな人間的真実が展開していく。また、社会的文脈を欠く一方で物語的文脈を知覚し内面化する能力は高く、それに従って生きようとするのが大きなポイントです。だからこそ、あの結末の鮮烈さにも深い納得感が生じてくる。いや、実に見事です。

杉江 物語的文脈というのは興味深いので、ちょっと補足していただいていいですか。

マライ 主人公は知覚した外界のあれこれを「生存のための道理」に当てはめて納得してゆくのですが、そこで自然に原始的な物語的文脈が発生する。それは非常に男性的マチズモに近接した匂いを放つんですけど、決して同一ではないギリギリ感がある。そこが陳腐なジェンダー議論的解釈を拒絶する凄さで感銘を受けます。だからこそあの結末に……という話は止めておきましょう(笑)。

杉江 ああ、生存のための道理を内面化していくということですか。なるほど。日露戦争による地域の産業革命化で、主人公が世話になっている旦那が没落するじゃないですか。そこについて一切説明しないところとか、すごいですね。

マライ そうです。いわゆる「匂わせ」でビジュアルの重み感まで描いている。

杉江 説明しないのは視点人物である熊爪には理解できないことだからなんだけど、それも含めて、社会の変化というものを一切解釈しない。ただ、そうあるものとして見せる。歴史小説のありようとして素晴らしいと思いました。マライさんがおっしゃった環境と現実の問題ですけど、実はそれって近代的精神がいかに成立していったかを考える上でとても重要じゃないですか。深い思索の上に成り立っていると感じました。

マライ はい。思索性は『絞め殺しの樹』でも凄かったですが、いっそう洗練されて文句なしレベルです。あと、ありがちな先読みを上回る文脈ツイストも特筆に値するでしょう。序盤では読者はある予測を立てると思うんですけど、実はそうならない。要所要所でしっかり読者の予想を裏切り、かつ観念的な深みを変転させてゆくので最後まで唸らされました。そういう意味で、本書の帯にある「新たな熊文学の誕生!」というキャッチコピーはいけません。あれで離れてしまった、本来この作品を読むべきだった人が絶対一定数いるはずです!(笑)

杉江 高橋よしひろの『銀牙―流れ星 銀―』(集英社)もびっくりの展開ですよね。前回候補になった『絞め殺しの樹』は主人公が流されるままに生きる女性だということが選考委員から批判されました。それに対しては、今回はどうだこのやろう、熊爪も流されるままだけど文句あるか、と作者が啖呵を切った感じがします。

マライ ああ、それはいいですね。本作の滾る感じの根っこにそういうものがあると、萌えます。とにかく、何らかの形で河﨑先生は報われてほしい!

 

嶋津輝『襷がけの二人』一つの民俗・都市文化を集中して描いた点でも評価高い

襷がけの二人
『襷がけの二人』
嶋津 輝 / 文藝春秋 / 1,980円(税込)
あらすじ
昭和前期の物語。東京・下谷に嫁いできたちよは、女中頭のお初さんに家事全般を教えられる。台所での交わりを通じて二人は、やがて本当の姉妹のような関係になっていった。
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マライ 候補作中では地味な話かもしれません。ギミック的には主従逆転ものといえるでしょうけど、戦前戦後を生き抜いた女性二人の一代記です。前半はぶっちゃけファッションとクッキングの描写が多く、そこで読者を選びそうだなという感触がある。しかし後半、俄然おもしろみと深みを増します。もともと、主人公が人生の途中でみずからの浅薄さに気づいて内面を見つめ直す話だから前半と後半の主観描写の色合いが異なるのは当然なんですけど。推しポイントは、「自覚なき、悪意なき加害者」としての主人公の内面描写、そして気づきの秀逸さです。実は芥川賞候補作「アイスネルワイゼン」と根を同じくする表裏一体の内容なのが興味深い。両作で主人公の運命の明暗を分ける要素は何なのか。直木賞、芥川賞という枠を超えた対比の面白さがここにある。ぜひ読み比べをお勧めします。

杉江 嶋津さんはオール讀物新人賞出身で、向田邦子の短篇みたいなのを書くな、珍しいなあ、と思っていたら初長篇がこんな名作でびっくりしました。主人公が「自覚なき加害者」というのはなぜですか? 主人公の鈴木ちよは家の決めた結婚に運命を左右されるキャラクターなので、犠牲者ではあっても加害者と見る人は少ないかと。

マライ そうですね。確かに被害者的な要素はあるけど、けっきょくは嫁ぎ先のシステムを利用しているわけです。ゆえに存在としては、全体構造を見ておらず、また見る気も無いキャラクターです。そこで発生する心理的な防衛機制が結果的に無自覚な攻撃性となり、夫の不倫相手に対する態度などを通じて明確化する。そして自覚する、という流れですね。

杉江 ああ、なるほど。彼女が家産を喰いつぶしながら見なければならないことから目を逸らしていることを指しているわけですね。

マライ 本作のテーマは通時的ですが、ネットで無責任な放言や雲隠れが容易になった昨今では特に重要化しているように感じます。どれほどの読者が主人公の無自覚な醜さとその気づきを自己に投影してものを考えるかはわかりませんけど、作者はおそらく明確に意図している。いわゆる戦中戦後の「普通の人びと」とはいったい何だったのか。そこから現代につながる連続性とは何なのか。落ち着いた志の高さが染み入るように感じ取れます。この作品は真の逸品です。

杉江 なるほど。そうした一面があるとは思うのですが、私は、子を産むための道具として家に呼ばれた人物が先方の都合で放置される結果となった点を重視したいと思います。性交と妊娠についての男性からの欲求を満たせないことが負い目となる価値観という側面が強い気がしました。なのでこれを読むときには、現在よりもさらに男性優位の社会であるということを念頭に入れないといけないのかな、と。昭和前期であるという歴史的背景は、この小説の場合頭のどこかに置いておいたほうがいいのでは、ということですね。

マライ なるほど、そこは私と違う観点ですね。しかしこのような作品を、当時の観点で見るか、現代の観点で見るかというのは通常であれば面倒な議論を引き起こしかねませんが、どっちでもいけるという点で本作は秀逸だなと思います。

杉江 そのとおり、両面性があり、幅のある小説ということですね。もう一つ、実はこれ、東京の下町というべき下谷区からほぼ出ないで進行する小説です。一つの民俗・都市文化を集中して描いた点でも評価高いですね。今ではありえないほどに純化された限定的な都市文化を描くという土台があり、その上に女性同士の協働関係を置くという構造です。

マライ なるほど定点観測的な。こういう小説こそ学校の副読本にしてほしいですね。

杉江 嶋津さん、これが初候補なのでどう転ぶかわからないですが、いい作家に成長したなと思います。デビューから読み続けている者として嬉しい限りですよ。

万城目学『八月の御所グラウンド』ジャンル文脈を心地よく裏切る感がよい

八月の御所グラウンド
『八月の御所グラウンド』
万城目 学 / 文藝春秋 / 1,760円(税込)
あらすじ
京都の夏は灼熱の熱さだ。〈俺〉こと朽木は、恋人に振られたため脱出に失敗し、八月を京都で過ごすことになる。そんな彼に友人の多聞は、草野球大会への参加を持ちかけてきた。
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マライ 夏、京都は酷暑。ゆえにそこで人はボンクラになり、その知覚の隙を突いて世界が、いや京都が、というべきか、裏の姿を垣間見せる。圧倒的にいいですね、この作品は! 純度と密度が高くて読みやすく、しかも全くありがちでない。一種の幻想譚なんですが、絶対的にそっち文脈に入り込むわけではない絶妙な寸止め感もまた秀逸です。

杉江 表題作はずっと草野球しているだけなんですよね。なのにするすると読まされてしまって、く、くやしい。

マライ あとジャンル文脈を心地よく裏切る感がよいです。詳しくはネタばらしになるので言えないんですけど、この手の小説のお約束を平然と破るところがあります。ざっくり言うと「いまの極上のひとときを壊したくない」ということで、異変が起きても語り手はなるべく日常に持ち込もうとするんですよね。あそこがいいんです、実に!

杉江 そうそう。みんな平然としていて、実に万城目学らしいキャラクターでいいですね。変に泣かせようとしないところも高評価ですよ。あんなうだるように暑い京都でべたな泣かせをやられたらうっとうしくて仕方ない。

マライ 話のオチがあるようでないのもポイントですね。異常なことが起きて、その解明の筋書きが進むんだけど、最終的に放棄されて「だがしかし夏の京都の暑さはヤバいね」みたいな感じで終わる。下手に解明されきるよりもぜんぜん満足感が深いです。正解ではなく蓋然性が与えられる感触というか。

杉江 京都は異界じゃけん、みたいな小松和彦の受け売り小説は鼻につく場合があるんですが、さらりとしているのがいいですねえ。こうあってもらいたい。

マライ 同感です。現実の中に異界が浸透してゆく感触が、同時収録の「十二月の都大路上下ル」もそうなんですけど、ちょっと村上春樹っぽいともいえる文脈の唐突感と元々そこにあったかのようなナチュラル感のブレンドみがあって、それがまたすこぶる良いですよ。だいたい、表題作の異界を呼び出す契機が「祇園のクラブのママのキス権をめぐるオヤジバトル」の一環だったりする昭和じみたズッコケ感が素晴らしい(笑)。

杉江 これが受賞してもいいなあ。万城目さん、このあいだBSフジの「クイズ!脳ベルSHOW」に出て喜んでましたけど、それより直木賞を獲ったときの笑顔が見たいですよ。

 

宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』あらゆる知的角度からの鑑賞に堪える

ラウリ・クースクを探して
『ラウリ・クースクを探して』
宮内 悠介 / 朝日新聞出版 / 1,760円(税込)
あらすじ
エストニアで生まれたラウリ・クースクは、父がコンピュータを手に入れたことから情報科学に親しむようになった。その道で身を立てるという夢は、思わぬ事態によって阻まれる。
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マライ これは凄い傑作なんですよ。観念SFでありながらストーリー構成をちゃんと時流と噛み合ったものにしている点は、さすが宮内悠介氏の鬼才ぶりというべきか。にもかかわらず「王様のブランチ」とかで紹介しやすいキャッチーさがイマイチ無いので、マス向けのわかりやすい紹介がしにくいという。それが宮内悠介の困ったところであり、いいところでもあるのですが(笑)。本作の中心テーマは、因果関係の証明の難しさです。

杉江 お、それは興味深い。

マライ たとえば「アラン・チューリングがいたおかげで、英国情報部はナチスドイツのエニグマ暗号を破った」というのは、雑な表現だけど、間違いではないでしょう。チューリングが直接果たした役割も煩雑にはなりますが説明可能です。ただ実際には、より多くの人類的進歩の場で「ある天才がその場に居たからこそ事業は成し遂げられたが、その天才は、持てる才能の真価をべつに現場で発揮したわけでもない」例が多いんです。「そういう存在だとは認識されていない」し「存在価値の証明が困難」ではあるけど「でも絶対不可欠な」天才とか異能者っていうのがいるんです。世界と文明と人間の運行原理を読み解くための核心の一部として、この証明困難なサムシングを認識しておくことはけっこう重要だと思うの! という話です。この件、序には逆説的にばっちり書いてあるんだけど、読者からは、「ソ連崩壊に翻弄されて埋もれてしまった」「小さな誠実さをもっと大切に」みたいなリベラル人間賛歌っぽい文脈で解釈されていると思います。

杉江 なるほど。そこはおもしろい観点ですね。

マライ 個人的に本書の中心テーマは、時流がどうのこうのではなく、いつか誰かが世に問うべき汎人間的でオモシロなお題である、と認識しています。内容的には芥川賞候補でもいい気もします。

杉江 外側からは見えないけど、全体を成り立たせている部品は機械のしかるべきところにあるというか。私は歴史学をやってきた人間なんで、歴史は誰かに還元できるものではない、というのは割と前提条件なんです。

マライ しかし世間が求めるのは伝説なんですよね。本作は、「わかりやすく、役に立つものだけを残す」という最近の安直な、よろしくない実学重視の風潮への真のカウンターとしてものすごく価値ある作品でもあると思いました。

杉江 歴史という観点で言うと、たとえばNHKの大河ドラマは歴史そのままじゃないという批判を受けやすいですけど、あそこで語られるのは講談的な英雄エピソードにすぎないから、事実と違っていてもたいしたことじゃないんです。それより重要なのは、戦の中では足軽でしかないモブキャラが普段は何で飯を食っていて、田んぼはどのくらい持っているか、ということなんですよね。本作のような小説は、そうした歴史と歴史物語の間にあるジレンマを非常に理知的に表現したと思います。歴史小説としては非常に素晴らしい。

マライ あらゆる知的角度からの鑑賞に堪える、というのは特筆モノです。本作がその真価を踏まえた形で受賞するには、前提としてかなり高度で特殊な認識・合意の形成が必要なわけです。あと、作者が海外渡航・在住経験豊かで観察力に優れているためでしょうけど、外国人キャラクターが「ガイジンの外見をしたニホンジン」ではなくちゃんと外国人としてナチュラルにキャラ造形されているのが、地味ながらすごくいいです。また、ロシアVS西欧の情報バトルの焦点となるエストニアを舞台とし、世界のダークサイド面を描きながらもエストニア人、ロシア人の双方、酒場の半グレ集団に至るまで、真に性根の腐りきったやつは一人も出てこない。そしてそこに偽善の匂いがしないのが宮内悠介の作風というもの。国際情勢に関する変な煽りが無いのがまたいいですし、宮内悠介の作品はもっと教養人の指針みたく注目されていいと思うんだよなー、実際。

杉江 過去の実績から見て、直木賞選考委員が本作を読めるかどうか、かなり不安があります。おなじみの「なぜ舞台も登場人物も日本じゃない小説が候補なのか」カードが切られたら絶望ですね。さっきマライさんがおっしゃったように、芥川賞枠でもぜんぜん問題ない題材だし作家だと思います。そのへんのジャンルを超えた感じが、逆に受賞しにくさにもつながっているんでしょうね。

マライ それだーーーーー! 「凄いゆえにむしろ受賞しにくい」ここ、太字デカ字金文字で主張すべきポイントです。

杉江 受賞したら、直木賞選考委員におみそれしました、とお詫びしましょう(笑)。

村木嵐『まいまいつぶろ』家重と忠光の麗しい主従関係を愛でる小説

まいまいつぶろ
『まいまいつぶろ』
村木 嵐 / 幻冬舎 / 1,980円(税込)
あらすじ
生まれつきの障害があったため、徳川家重は他人と会話をできずに育った。彼の言葉を理解できる大岡忠光との出会いが家重の運命を変える。手を携えて生きる主従の運命はいかに。
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マライ こう言ってはミもフタもありませんが、芥川賞を受賞した市川沙央『ハンチバック』(文藝春秋)の前に世に出て、評判になっていたらよかったと思うのですよ。こういう、健常者から見た障害者ドラマの良作が一定の評価を得て、その上で『ハンチバック』がカウンター気味に乱入してきて当事者ならではの本音マイクパフォーマンスを見せつけるのが道理ではないかと。良作ではあるんだけど、順序が惜しまれます。では『ハンチバック』既読という前提抜きで考えればよいのかというと、気になる部分もあります。物語構造で、善と悪の対立がわかりやす過ぎではありませんか。USAマチズモの権化といえるマーベルヒーローズでさえ自らの正義性の矛盾に悩む昨今、特に差別問題がらみで人間性の深みを描くにあたって、その設定はちょっとどうなのか。

杉江 基本的には家重と忠光の麗しい主従関係を愛でる小説ですよね。

マライ 帯にある「もう一度生まれても、私はこの身体でよい。そなたに会えるのならば」という文章に、本作の価値は完全集約されてしまう。実際、「そう、それがいいんですよ!」という人もいるんでしょうけど。

杉江 私がこれはなあ、と思っているのはキャラクターのぶれなんですよね。家重は暗愚な将軍として有名で、本作の価値はそれを覆したところにあります。でも事実として動かせないのは、家重が側室を疎んで幽閉したとか、自分を虐げた老中を左遷したとか、そういう暗い部分なんですよね。さすがになかったことにはできないから、家重と忠光以外のキャラクターを心境変化させることで、二人が悪者に見えないようにした。小説は事実じゃないんだから、嘘を書いてもいいです。でも、小説内でつじつま合わせのためにキャラクターがぶれるのは、部品の不良ですよね。結局はマライさんがおっしゃったように、嫌なやつを登場させて主人公をよく見せる小説、ということになってしまう。いや、主従の物語として美しいですし、私も楽しんで読んだんですよ。村木さんも初候補ですし、今回は顔見せということでいいんじゃないですかね。

直木賞候補作総括●予想以上にいけてる、やればできるじゃん

マライ 政治的・経済的・社会的な現実の筋書きの大胆さ、ひどさが生半可なフィクションを凌駕している感がある現在において、心に刺さるエンタメ系作品か否かという観点を意識して各作品を読みましたが、予想以上にいけてる作品が多かったです。作家たちのマインドが、知的・神経的な乱世状態にようやく馴染んできたというか、対応パターンの構築が出来てきたというか。そして今回、特に私が二強+大穴として挙げた作品群には、「ジャンル小説的な要素を持ちながらそこにとどまらない」というジャンルクロスオーバー感が濃厚に窺えます。たとえば「落語ミステリー」なんかの場合、落語好き「かつ」ミステリ好きな読者じゃないと読まないというand条件の罠が往々にしてあるのでなかなか大規模に成功するのが難しかったのですが、今回の諸作にはどれか一要素でも刺さればいける「or条件の突破力」的なポジティブさを強く感じます。知的趣味的業界の細分化が進む中、この路線は「文芸」の存在意義を維持拡大するためにもきわめて重要と思われるので、さらなる展開に期待したいです。

杉江 ありがとうございます。今回はとにかく、外れの候補作がなかったことに尽きます。やればできるじゃん、直木賞も。

芥川賞予想対談も!

前回(169回)から「WEB本の雑誌」で始まった芥川・直木賞予想対談。〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mが1月17日に選考会が行われる第170回芥川・直木賞を語り倒しますよ。曲者揃いの芥川賞候補作にもがっぷり四つで語ってます。

第170回芥川賞選評を読んで徹底対談はコチラ

 

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