第231回:佐藤究さん

作家の読書道 第231回:佐藤究さん

今年『テスカトリポカ』が山本周五郎賞と直木賞を受賞、注目を集める佐藤究さん。幼い頃はプロレスラーになりたかった福岡の少年が、なぜ本を読み始め、なぜ小説を書き始め、なぜ群像新人文学賞受賞後に江戸川乱歩賞で再デビューしたのか。そしてなぜ資本主義について考え続けているのか。直木賞発表前の6月、リモートでおうかがいしました。

その5「デビューとその後」 (5/8)

――小説の執筆については高校時代以降、ちゃんと書き始めたのはいつだったんですか。

佐藤:河村さんに「何か書いたら『群像』に送ったらいいよ」と言われていたんですが、なかなか暇がなかった。当時勤めていた会社で商品のパンフレットを作ったり、広報誌のデザインをやったりしていたんです。DTPは大変でしたね。小説家も、ああいう作業を知っていたほうがいいと思うんですよ。編集の苦労を知らないで、コラムを字数超過して書くのが格好いいみたいな錯覚がなくなりますから(笑)。あくまで紙媒体の話ですけどね。
 ロックに、27クラブっていう都市伝説がありますよね。カート・コバーンもジミ・ヘンドリックスもみんな27歳で亡くなっている。それで僕も、26歳になった時に、ここで自分も伝説を作らなければと勝手に思ったんです(笑)。ただミュージシャンは無理だから、小説を書こうと。その時点でロックの27クラブとは関係なくなっちゃってるんですけどね(笑)。2004年に「サージウスの死神」を書いて群像新人文学賞に投稿したら優秀作になりました。翌年に書籍化されて、でも、そこから迷路にはまりました。編集者も僕のバックボーンを知りたいから「作家では誰が好きか」って訊いてくるんですよ。僕がブコウスキーとかレイモンド・カーヴァー、ティム・オブライエンとかを挙げると、「じゃあ日本人作家は?」と訊かれる。僕はその時三島さんから遠ざかっていたから、この国にはいないなと思って。今思えば、さっきの椎名誠さんだったり、夢枕獏さんや京極夏彦さんなど、いろいろ挙げられたんですけど、純文学でデビューしてしまったから、そっちで答えなきゃいけない、という固定観念があったんでしょうね。もちろん村上春樹さんも読んでますが、ご本人が翻訳される海外作品のセレクションが好きで。それがカーヴァーやオブライエンですよね。
 音楽なら外国のミュージシャンばかり聞いている人はいるけれど、小説、特に純文学の世界では珍しがられる。編集者も僕自身もプロデュースの方向性がつかめない微妙な空気の中で、僕は業界からフェイドアウトしていきました。

――その頃に東京に越してこられたんですか。

佐藤:さすがに業界から消えたあとに越してくる意味はないですから、消える前に越してきていました。最初に住んだのは高田馬場でした。当時の編集者には「新人の本は面白いほど売れませんよ」と言われましたね。その通りでした。そうこうしているうちに物書きの仕事がなくなって。作家生活10周年記念と銘打って、記念作品を出されている作家さんは大勢がおられますが、すごいなと素直に思います。僕が10周年を迎えた時は原稿依頼ゼロで、ゴールデン街の近くで警備員をやっていましたから。

――働きながら小説を書いていたんですね。

佐藤:ワーキングクラスの作家が好きだったから、きついけど楽しかったですよ。さっきいったようにブコウスキーとかカーヴァー、それにデニス・ジョンソンとかが好きでした。ルー・リードやローリングストーンズの音楽が聞こえてくるような世界観が好きだったんですよね。でも、そういう小説を書いていても日本ではニーズがないのでは、と気づいた。
 いかに完成度を上げたところで、ニーズがなければ出口はないから、方向転換しようと思って、ゾンビ小説を書き始めたんです。それを持って編集者に相談しようと思った。でも仕事がないから、編集者に会う機会そのものがない。それで編集者に会うために文芸賞のパーティーに行きました。過去の受賞者には案内の葉書が来るので。ゾンビ小説はまだ書き上がっていなかったので、企画書を持っていきました。編集者が受賞者や他の作家と話し終えるまで隅のほうで待っていて、ほろ酔いになった編集者にようやく企画書を見せたら、「江戸川乱歩賞に応募してみませんか?」と言われて。一瞬「その手があったか!」と思いましたが、冷静に考えてみると一般公募の賞なんですよ。この時点で僕は戦力外通告なんだな、と認識しました。そこからやり直さなくちゃ駄目なんだ、と。でもあの時、進むべき方向を示してくださったことには本当に感謝しています。
 そのパーティーの翌年の2015年に、乗代雄介さんが群像新人文学賞を受賞されたんですよね。今年、僕が山本周五郎賞、乗代さんが三島由紀夫賞を受賞して会見で一緒に並んだ時、ずいぶん遠回りをしたなあ、と思いました。遠回りというか、回ってもいなくて別のところに出てきてしまっているんですけど(笑)。
 ところで文芸のパーティーって、売れている作家の前には編集者がずらーっと並んでいるんですよ。昔、僕が隅っこで別の作家と一緒に立っていたら、隣で彼が「ああいうふうに前に並ばれるようにならないと駄目だ」って言ったんです。まあそうだろうなと思ったんですが、ひと晩よく考えてみて、大事なのは編集者じゃなくて読者に並ばれることじゃないか、と思ったんですよね。そこで頭が切り替わりました。必死でやっているとユーザー目線、つまり読者目線がおろそかになるけれど、もっと並んでくれる人のことを考えてもいいんじゃないかって。そのためにもうちょっと自分なりの方法を探してみるか、と思うようになりました。お呼びじゃない場所って行きたくないけれど、行ってみて気づくこともありますよね。

――その時のゾンビ小説は書き上げたのですか。

佐藤:書いたんですが未発表ですね。企画書を持っていった時点で700枚くらいあったんですよ。乱歩賞の規定は550枚までで、150枚も削るともう形が変わっちゃうから、突貫工事でまったく別の、550枚の枠に入るものを3か月程度で書いて応募しました。それが一次選考だけ通過して。一次通過すると誌面に名前が載るから、編集者の誰かが気づいて連絡してくるかなと思ったんですが何もない。まだ認識が甘かったんです。俺のことは誰も憶えていないし、そもそもみんな忙しいから、売れていない奴のことを考えている余裕もない。はじめて業界での自分の位置を正確に理解しました。だったらペンネームを変えてもう一回挑戦してみよう、と。それで書いたのが、『QJKJQ』でした。

――2016年に見事、『QJKJQ』で江戸川乱歩賞を受賞されましたよね。

佐藤:装丁家の川名潤さんに手がけてもらった最初の本になったのですが、それ以後も装丁は川名さんにお願いしています。あの小説はすべてにおいてターニング・ポイントになりましたね。

――『サージウスの死神』は闇カジノにはまっていく青年が主人公でノワールの感触があるし、『QJKJQ』も『Ank: a mirroring ape』も『テスカトリポカ』も暴力は描かれるけれど品がある。純文学からエンタメへと、作風ががらっと変わったわけではないんですよね。

佐藤:僕自身はストレートにパンチを放っているつもりです。海外の作品だとエンタメ性と文章の美しさが両立しているものがいろいろありますし。暴力描写もあるのに陰惨ではないですね、とはよく言われるんですけれど、思えば林田球さんの『ドロヘドロ』に教わった部分が大きいですね。スプラッターな描写がエグい漫画なんですが、どこか明るくて突き抜けている。新宿の百人町に住んでいた頃に熟読してました。バイオレンスを描くときの、ギリギリのさじ加減というのを教わった『ドロヘドロ』には感謝しています。あと、ローブロー・アート的な面白さも教えられました。

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