第231回:佐藤究さん

作家の読書道 第231回:佐藤究さん

今年『テスカトリポカ』が山本周五郎賞と直木賞を受賞、注目を集める佐藤究さん。幼い頃はプロレスラーになりたかった福岡の少年が、なぜ本を読み始め、なぜ小説を書き始め、なぜ群像新人文学賞受賞後に江戸川乱歩賞で再デビューしたのか。そしてなぜ資本主義について考え続けているのか。直木賞発表前の6月、リモートでおうかがいしました。

その7「いちばん紹介したかった本」 (7/8)

  • 鏡映反転――紀元前からの難問を解く
  • 『鏡映反転――紀元前からの難問を解く』
    高野 陽太郎
    岩波書店
    2,970円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

――『QJKJQ』、『Ank: a mirroring ape』、『テスカトリポカ』の「鏡三部作」が、人間の営みについても考えさせる内容だったのは、そうしたベースがあるからだなと納得しました。

佐藤:たぶんみなさんも無意識のうちに考えていることだと思います。
 加速主義者っていますよね。資本主義がどんどん加速して、限界に達した時に資本主義を抜けられるだろうというのが加速主義の考え方。アクセラレーショニズムともいいますね。トランプ支持者とも親和性が高かったそうですが。でもたぶん、それでは僕らは闇を抜けられないと思うんです。
 僕ら人間は入り口を間違えて、出られない迷路にすすんで入りこんでいるようなものなんですよ。加速主義者は加速した先にあるエグジットをテーマにしているけれど、僕はそもそもエントランスが違うんじゃないかって気がしています。世界も、肉体も、モノも、入り口が間違っているからループして人間は同じ間違いを繰り返している。
「鏡三部作」では、エグジットを提示するのではなく、エントランスが違うということ、オルタナティヴな入り口があるんじゃないかって、自分自身でも探してみたんです。人間は間違ったエントランスから入ってぐるぐる回っているような気がします。だから今日、これだけは紹介しなければという本があって......。

――おお、ぜひ。

佐藤:『Ank: a mirroring ape』を書く時に資料にした、高野陽太郎さんの『鏡映反転 紀元前からの難問を解く』です。
 鏡がどうして左右反転して映るのかって、決着ついてないんですって。本当はもっと複雑な現象で、ちゃんとした定説がないそうです。これは、もう一回基本に立ち戻って、この難問を考えてみようっていう本です。
 鏡の前で右手を挙げたら、左手が挙がっているように見えますよね。でも、高野さんが学生に「鏡の前で手を挙げて左右が反転していると思いますか?」とアンケートを取ったら、そう思っていない人が結構いるんですよ。びっくりしますが、これが結構バラバラなんです。人は空間認識すら統一されていないんじゃないかって話ですよ。
 これもひとつのエントランスの話ですよね。思わぬところに落とし穴がある。たとえば、学生たちに鏡文字を見せると、日本語だと鏡文字だと分かるけれどロシア語だと反転していることが分からない。当たり前の話ですけれど、知らないものについては反転しているかどうか気づかないんです。そう考えると、人間って普段から、何かあべこべになっているものを揺るがない現実だととらえている可能性はゼロじゃないですよね。それって認知のレベルで、思考とか主義主張より前の話です。
『Ank: a mirroring ape』ではそういう次元に触れたかったんです。人は毎日、ネットでもいろんな議論をしてますけど、それ以前に、人間って信じられないような、知ればずっこけてしまうような見落としをしている気がする。学者さんがそんな話をすると「変な人だな」と思われてアカデミックな世界の中で仕事がしづらくなるのかもしれませんが、その点、作家はそういうことをフィクションで書けるというのは強みであると同時に、それが役割でもある。僕が書いているのはそういうことなんです。だって見落としが分かれば何かが変わるかもしれないじゃないですか。見落としたままやれデジタルだ、バーチャルだと言っているのは危険ですよ。

――認知のレベルで落とし穴に気づけたら、日常生活も一変しますね。

佐藤:たとえば長い廊下を歩いていて、その途中で鏡が用意されていたとします。その前に立った時、自分がこれまで歩いてきて、ずっと遠くの背後にある奥行きが、自分の前に見えている。見えないはずの後ろが、前に見える。でもそのときの前後の反転ってあまり意識されていない。ベルクソンがいうところの「持続」の空間がひっくり返されているのに、そのことに気づいていない。
「前」って、単に進行方向のことだと思われがちだけど、左右などの他の方向とあきらかに違うんですよね。見える見えないを決めている方向なんですよ。
『テスカトリポカ』でコシモが「じかんがゆうひにしずんでいる」というのは、彼は文明に染まっていないから、ベルクソンのいう「持続」の感覚を認識しているという設定なんです。認識のありかたとしてはコシモのほうが正しいと思うんですが、人間は、気持ちよく感じる認識のほうに騙されたがる。
 表と裏っていう概念がありますよね。表と裏は同時に見ることができない。僕が今、こうして本を持って表紙を見ている時、みなさんには裏しか見えていない。それを、ひとつの空間でまったく同じものを見ていると思い込むのは、あきらかにカテゴリーエラーを起こしているんです。そういうところで人は永遠に答えの出ないバトルを繰り返している気がする。

――めちゃくちゃ興味深いです。

佐藤:『QJKJQ』を書くにあたって読んだ『脳はすすんでだまされたがる マジックが解き明かす錯覚の不思議』というノンフィクションがあって、これはアメリカの2人の神経科学者が、人間の認知の仕組みを探るためにマジックの不思議に着目して、やがてみずからもマジシャンとしてデビューする話でもあるんです。2人はアカデミックではないエンターテインメントの現場で長年培われた、人の認知を操作するいろんな方法を、マジシャンに教わっていく。「意識の手品シンポジウム」という大会をラスベガスで開催したエピソードは面白いですよ。ステージに立ってマジックを披露するのはトップクラスのマジシャンで、一見普通のショーのように映るんですが、その日の観客は全員が一流の科学者なんです(笑)。マジシャンと科学者、人間の認知や注意について朝から晩まで考えている者同士が、マジックでだませるか、だまされないかで勝負する。さすがに200人の科学者がいたら、誰かが見抜くだろうと思いますよね。ところが誰も見抜けない。まんまとマジシャンにだまされる。
 エンターテイナーはすごいってことですよ(笑)。たとえば僕が今、こうして右手を挙げて円を描いたら、みんなそこを見ますよね。マジシャンはその間に左手で仕掛けを仕込む。人は円運動に目を奪われるんですって。ミスディレクションってそういうことなんだなと思って。
『QJKJQ』も円運動がふたつ入っていればいいかなと思ってタイトルにQをふたつ使って、しかもKを挟んで左右で鏡像になるように配置してみたんです。いまだに僕の文庫でいちばん売れているのはこの本だから、効果があるのかもしれないですね(笑)。

» その8「創作と日常」へ