第234回:青山美智子さん

作家の読書道 第234回:青山美智子さん

今年、『お探し物は図書室まで』が本屋大賞で2位を獲得した青山美智子さん。14歳で作家になりたいと思い、ずっと書き続けるなか、卒業後はオーストラリアへ行き、帰国後は編集者&ライターとして奔走し…。そのなかで吸収してきた本たちとは? 作品や作者に対する愛があふれるお話、リモートでたっぷりうかがいました。

その4「ライフヒストリー、オーストラリア」 (4/8)

――高校時代もずっと小説は書いていましたか。

青山:ずっと書いていました。中学の演劇クラブの先輩に誘われて、学校外で文芸サークルに入っていたんです。月に1回誰かの家に集まってお茶会をして、みんなが原稿用紙にシャーペンで書いたものをリーダーの人がワープロで打って、印刷してホチキスで留めて同人誌を作って、それを回し読みしていました。小説だけではなくて、絵が得意な人はイラストを描いていたし、他の人の小説の感想を書くコーナーがあったりもしました。
 その時一緒だった人たちと、今繫がりがなくて寂しいんです。誰かが私の名前に気づいて連絡してきてくれないかなって思っています。そのサークルに誘ってくれた先輩が言ってくれた「あなたの小説大好きだから書き続けてね」という言葉がずっと心にあります。その先輩に会いたいです。

――大学はどの学部に通っていたのですか。

青山:中京大学の社会学部社会学科です。高校で美術の先生に「美大を受験しないか」と言われてその気にもなったこともあったんですけれど、そこまで美術で食べていくという自信や情熱がなかったんですよね。やっぱり小説家になりたかった。
 それで大学のパンフレットを見ていたら、社会学部の桜井厚先生のゼミが紹介されていて、「ライフヒストリーをやります」ってあったんです。ライフヒストリーってなんだろうと調べてみたら、誰かの人生を辿って書く、とあって。これがやりたいと思いました。それで社会学部社会学科に入って、桜井先生のゼミを選びました。

――実際にどなたかに取材したのですか。

青山:いろんな人にあたってみたんですが、いまいちしっくりこずにいた頃、「笑っていいとも!」でミスターレディーのコーナーをやっていたんです。女性の格好をした男の人たちがファッションみたいに取り上げられていた。それを見て、「この人たちは今ブームみたいに出てきているけれど、長い歴史の中ですでにこういう人はいたし、一時的なファッションではないはず。こういう人に話を聞いてみたい」と思いました。それでゼミの人に相談したら、そういう方たちにインタビューしている先輩がいて、名古屋のゲイバーで働いているイブちゃんを紹介してもらいました。それから2年半かけて、ゲイバーにいったりプライベートでお茶しながら幼い頃のことや恋愛観とかを聞いて、イブちゃんの半生を書きました。向こうも19、20歳の変な子がいきなり来たと思っただろうけれど、いろんな話をして、一緒に騒いで、可愛がってくれました。やっぱり、自分の話をするより、人の話を聞くことが好きなんですよね。今もすごく取材をします。もちろん資料も読むしネットでも調べるけれども、本人に会うのがいちばん感じるものが大きいですね。...ああ、まさか今日、イブちゃんの話をするとは(笑)。

――高校・大学時代に小説の新人賞の応募などは始めましたか。

青山:いえ、まだです。コバルト文庫の後ろに新人賞の募集要項がありますよね。規定枚数が95枚だったんです。高校時代、同人誌に小説を書きながらも95枚が書けなかった。みんなに「うまいね」と言われていい気になっていたけれど、95枚が書けないなんて駄目じゃん、と落ち込みました。実際に新人賞に応募したのは、23歳くらいの頃、オーストラリアから送ったのが最初です。

――大学卒業後、オーストラリアに行かれたのですか。

青山:ワーキングホリデーという制度を知って、こんな面白いものがあるのにみんなどうして行かないんだ、と思いました。英語ができるわけでもないのに、勢いで行っちゃった感じです。

――就職活動はしなかったのですか。

青山:内定も出ていたんですけれど...。ワーキングホリデーは1年間だけだし、大学の時に編集プロダクションでライターとして地方版の「ぴあ」や「an」のカラーページで書く仕事をしていたので、なんとでもなるかな、という若気の至りがありました。
 最初はブリスベンで2か月間ホームステイをして語学学校に通いました。それからラウンドしようと思って、スーツケースを預けて体重よりも重いバックパックを背負って、まずケアンズに行ってオパール屋さんで3か月くらい働いて、グレートバリアリーフでダイビングの免許を取り、エアーズロックに登り、アデレードに行き、メルボルンで芸術を見て、最後に半年間シドニーに住みました。それまではホテルみたいなところを渡り歩いていたんですが、シドニーでは家具付きのアパートを借り、電気や電話を引いて...。今思うと全部英語でよくやったなと思います(笑)。
 暮らすんだったら働かないと、と思ってバイトを探したら、日系の新聞社の記者募集の貼り紙を見つけたんです。それで応募して、記者として働きました。3か月くらいして、そろそろワーキングホリデーのビザが切れる頃に新聞社から「サポートするからビジネスビザに切り替えて、もうちょっとやってみたら?」と言っていただけたので、ビザを切り替えて正社員になって、もう1年いることにしました。

――どんな記事を書いていたのですか。

青山:私は「生活面」を担当していて、暮らしの情報全般でした。インタビューも多かったですね。取材は英語でしたが、現地の日本人向けの新聞なので記事は日本語です。その時に、誰にでも分かる文章というのもを教わりました。今も私は、小説を書く時に、大人向けの小説ではあるけれど小学生でも読める、ということを基準にしているんです。難しい言葉は使わず、誰もが理解できることを書くために、新聞社で植え付けられたものが役立っています。

――オーストラリア時代の読書は。

青山:日本から持っていった本が1冊だけあるんです。小田空さんの『目のうろこ』。中国やインドで貧乏旅行をした話が、文章あり、写真あり、漫画ありで紹介されているんですが、これがものすごく役立ったんです。違う国の人たちとどうコミュニケーションをとるか、現地でどういうふうに暮らしていたかが丁寧に書かれていて、すごく勇気をくれたし、自分の固定概念みたいなものを崩してくれて。当時の私を守ってくれた、大事な本です。
 ただ、持っていったのが『目のうろこ』と『地球の歩き方』だけだったので、とにかく日本語の媒体に飢えてしまって。今と違ってネットもないし、書店で売っている日本語の本はすごく高い。でもある時、図書館のすみっこに日本語の本が数冊あることに気づいたんです。そのうちの1冊が『あしながおじさん』でした。「日本語の本だ!」と思って借りて読んだら、面白くて面白くて、最後は大泣きして。小さい頃の文学全集のトラウマから名作にはアレルギーがあったんですが、ようやく抜け出せました。
 でも大人になって読んだからよかったのかもしれません。中高生の時に読んでいたら主人公のジュディに感情移入していただろうけれど、大人になって読んだので彼女を援助するおじさん側の気持ちになったんですよね。自分もこんなふうに、いいなと思える誰かを応援したいな、サポートできたら幸せだろうなって。

――さて、オーストラリアから最初の応募としたということでしたが。

青山:新聞社の仕事が激務で、時間的にも体力的にも小説はたくさんは書けなくて。でもなんとか書きあげて、1回だけ「すばる」に応募しました。編集部に電話して「海外から応募してもいいか」と訊いたのを憶えています。
 投稿先を「すばる」にしたのは、枚数と時期が合ったことと、「すばる」から出ている作家さんは活躍している印象があったんですよね。帰国してからだんだんそこにはこだわらなくなって、手当たり次第送るようになりましたが。

  • あしながおじさん (光文社古典新訳文庫)
  • 『あしながおじさん (光文社古典新訳文庫)』
    ウェブスター
    光文社
    858円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

» その5「東京で一人暮らし」へ