第239回:岸政彦さん

作家の読書道 第239回:岸政彦さん

社会学者として生活史、社会調査の著作を多く刊行、2017年に『ビニール傘』を刊行してからは何度も芥川賞・三島賞の候補になり、『リリアン』で織田作之助賞を受賞するなど小説家としても注目される岸政彦さん。昨年は150人の聞き手が150人の語り手に話を聞いた編著『東京の生活史』が紀伊國屋じんぶん大賞を受賞。隣人たちの生活を見つめ続けるその源泉には、どんな読書体験があったのでしょうか。リモートでお話をおうかがいしました。

その7「小説を書く」 (7/8)

――小説を書き始めたのは、編集者から「書きませんか」と言われたのがきっかけだそうですね。2017年に初の小説『ビニール傘』を刊行されましたが、それまで小説を書こうと思ったことはなかったんですか。

:最初、新潮社の田畑さんという編集者の方から「小説を書きませんか」と言われて「いやいやいや」と言ったんです。作家になりたいと思ったことは1回もないですから、驚いて。
 でも、やっぱり文章を書くことは好きだったみたいですね、子供の頃から。これは次の小説のモチーフにしようと思ってるんですけれど、小4の時に修学旅行に行って、帰ってきて作文を書きましょうとなったんです。みんな原稿用紙2、3枚なのに僕は家から出てバスに乗るまでで50枚ぐらい書いた。それでも終わらなくて締切も延び延びにしていたら先生が怒ったので、バスに乗ってからは2枚で終わりました(笑)。
 それと小6の時、SFを書いてましたね。ただの子供の落書きですよ。世界が滅亡した後に生き残った人たちがサバイバルしていくみたいな話。
 あと、これも最近思い出したんですけれど、僕は2006年、38歳ではじめて就職できたんですが、それまで極貧やったんです。2005年くらいの頃はこのまま一生非常勤止まりやなと思っていて、なんとなく文章で飯食えないかなと考えたんです。時代小説とミステリとポルノ小説はマーケットがあるから、ちゃんと勉強して真面目に書いたら、ある程度は「仕事」にできるんじゃないかと。そんな甘いものではないと、今ならわかりますが(笑)。
 そう思って、まず時代小説を何冊か読んでみたけど、江戸時代とかの歴史には興味がない。それでフランス書院の本を何冊か買って読んでから、ポルノ小説を書き始めたんです。
 書く前に連れあいに約束したんです。女性の人権に配慮した小説を書くって。それで50枚か100枚くらい書いたところでぽこっと就職が決まって、そのまま書いたことも忘れてました。確か編集の田畑さんから「小説を書きませんか」と言われたのが2014年くらいで、「いや、書いたことないですし」って言ってから、そうしたことをいろいろ思い出しました。
『図書室』に入ってる「給水塔」というエッセーは、だいぶ前に書いて塩漬けにしていたものなんですが、あれを最初に書いた時に、これ小説になるな、とは思ったんです。それでとりあえず、こういう視線で、キーボードの上でこういう指の動かし方をすればいいんだなと思って、小説を書いてみる気になりました。
 最初はキングみたいなのを書きたかったんです。超能力者が出てくる話のプロットを書いて、大真面目に新潮社の田畑さんに見せたら反応がない(笑)。「ひょっとしておもんない?」って訊いたら、「おもしろくないことはないけど、向いてないです。私小説を書いてください」って。それで書いたのが「ビニール傘」でした。
「ビニール傘」、ちょっと凝った書き方をしてるんです。一人称の「俺」の中身がころころ予告なしに変わるんですね。コンビニの店員だった「俺」が、いつのまにか建築労働者の「俺」になってる。そういう小説なので、「俺」という一人称が別の人物にどんどん「乗り移っている」ように読める。でも逆で、本当は「俺」の方は固定した一人で、逆に世界のほうが予告なしに移り変わっているんです。だから、本人はそれに気づいていない。世界が変わると記憶も人格も仕事も全部変わるんだけど、「俺」はずっと固定した一人なんです。
『虚人たち』とか、パラレルワールドものとか、予告なしに場面が変わるヴォネガットの辻褄の合わなさとか、過去に読んできたいろんなSF的なところがそこに出てるんですよね。
「ビニール傘」は、大学院の試験に沢山落ちて、建築労働者やってる頃の感覚で書きました。毎日違うメンバーで集まって違う現場に行って、その日が何曜日かも分からなくなって。自分が小さい歯車になって、このまま死んでいくんやなと思っていた時の感覚です。たとえば、学生さんとかが、社会勉強で一時期だけちょっとドカタやってます、というのとはぜんぜん違うんです。当時は、この生活が一生続くと思ってた。
 だから、最初に書いた「ビニール傘」って、僕の全部が入っている感じです。生活史とか、ブルデューとか、キングとかヴォネガットとかディックとか、街が好きなことや、大阪が好きなことや、行く場所がないこと......。江南亜美子さんと対談した時に「最初の作品に全部入ってますね」って言われたんです。江南さん最初「ビニール傘」を読んだ時、技巧に走っていると思ったらしいんですけれど、『図書室』や『リリアン』を読んだら分かった、って。そうなんですよ、全部繋がってるんです。同じ登場人物が出てくるし、犬猫は出てくるし、ずっと大阪が舞台だし。

――小説を書いてみて、楽しかったですか。

:書くのは純粋に楽しいけれど、難しいです。『ビニール傘』はのびのび書いているけれど、『リリアン』になると小説っぽく書いている気がする。それがいいのかどうか分からない。小説として上手になっていってしまってもいいのか、と思います。
 同じことがエッセーでも書けるような気がするんですよ。小説じゃなくてもいいかもしれないと思ってしまう。フィクションである必要はなんだろうと。専業の小説家になりたいとは今でも思ってませんし。
 やっぱり、『東京の生活史』を作って、改めて社会学は面白いなと思ったんです。今、他にも社会学で大きな仕事をやっているし、今年こそ査読論文を書かないといけないし、今年度になって社会学に戻った気がしてます。
 だけど、実は、いま書いている最中の小説が2つほどあります。ひとつは1年以上止まってしまっています。自分のなかで書きたいことはあるんですが。なんだろう、疲れたのかな。文学も全然インプットできていないし、そもそも、俺が書かなくても面白いこと書いている人は他にたくさんいるから、自分が書かなくてもいいんじゃないかって思ってしまう。

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