
作家の読書道 第270回:金子玲介さん
今年5月、第65回メフィスト賞を受賞した『死んだ山田と教室』を刊行するや話題を集め、鮮烈なデビューを飾った金子玲介さん。8月には第2作『死んだ石井の大群』、11月には第3作『死んだ木村を上演』を刊行と勢いにのっている。そんな金子さん、実は長く純文学の新人賞に応募していたのだとか。ではその読書遍歴と、エンタメに転向した経緯とは?
その3高校の授業で太宰にはまる」 (3/8)
――太宰治にはまったのは、どんな授業だったのですか。
金子:付属校なので、授業のカリキュラムを組む時に大学受験を考えなくていいんですよね。先生それぞれが、自分の興味があるものを好きに授業してもいい校風でした。小澤純先生という、芥川龍之介を専門に研究している方がいて、周辺領域として太宰治にも詳しかったんですね。私が高校2年生になったのは2010年で、前年が太宰の生誕100年だったので、『人間失格』などの新装版がばんばん出ていた時期だったんですよ。それで小澤先生が、太宰メインで1年間授業を展開してくださったんです。たぶん、太宰は思春期に刺さるだろう、ということもあったんだと思います。
SFも好きな先生だったので、太宰と『ドラえもん』を並行してやったんですが、太宰についてはその生涯と照らし合わせながら、デビュー作品集の『晩年』や「狂言の神」などの初期作品を一篇一篇読み解いていったんですね。『晩年』は一篇目が「葉」という作品で、これが36の断片に分かれているんです。私は高校一年生の時からtwitterを始めていたので、「葉」はtwitter味がある小説だと思いました。一行だけの断章もあって、警句的な、響くフレーズがあったりして。エピグラフにヴェルレーヌの「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」って言葉が引かれていて、私も中二っぽいところがあったので、「格好いいじゃん」と。
それまで教科書とかで読んだ太宰の作品はそこまで前衛的と感じなかったんです。書かれた時代には前衛的と言われていたかもしれないですが、現代小説を読んでいる人間としては、そこまで尖っている印象がなくて。でも、「葉」は自分にとっては見たことのない形式だったんです。分かりやすいストーリーラインがあるわけでもなく、一見関係のなさそうな、長短含めた断章がポンポンとあって、読んでいくとおぼろげに繫がりが浮かび上がってくる。そこにすごくびっくりしました。こんな小説があるんだ、って。
『晩年』にはのちに『人間失格』で再登場する大庭葉蔵が主人公の「道化の華」も入っていて、三人称で太宰が鎌倉で心中未遂した時のことが語られるんですけれど、合間合間に「僕」という一人称が現れ、こんな文章じゃ駄目だ、こんな恥ずかしい場面を自分は書いていいのか、みたいな自意識が語られる。「猿面冠者」という短篇はメタが積み重なっていく構造で、「ロマネスク」という短篇は修行して強くなっていくという、少年漫画味を感じる内容で。
それまで太宰治って、『人間失格』とか『走れメロス』とかが教科書に載っている偉い作家というイメージだったんですけど、『晩年』を読んで、こんなにいろいろ面白いことをやっている人だったのか、と思いました。授業での解説も含めて、すごく衝撃を受けました。小説ってこんなにいろんなことをやっていいんだ、こんなに面白いんだって、気づいたら自分も小説を書き始めていたんですよ。夏休みには書き始めていたと思います。
――実験的な小説を?
金子:徐々に実験的になっていくんですけど、書きはじめた当初は、うまく実験できなくて。国語の授業は他にもあったんですが、夏目漱石の『夢十夜』をやってくれた先生もいたんですね。それも面白かったので、『夢十夜』っぽい、夢みたいな設定の話を書いたのが最初でした。ちょっと湊かなえさんチックな、イヤミスっぽい夢の話です。書いていて楽しかったんですけど、作品としてうまくいったかは分からないです。
――授業で太宰と並行して『ドラえもん』も扱ったということですが、それはどんな授業だったんですか。
金子:前半は『ドラえもん』の映画を観て感想を書いたりして、夏休みだったかに「大長編ドラえもん」の企画書を書きなさい、という課題が出ました。そのなかから良かった10作くらいを小澤先生がピックアップしてくれたんですけれど、私は選に漏れました。ちょっとひねってダークヒーローっぽいものにしたんですけれども、爪痕を残せませんでした。2021年に岸田國士戯曲賞の候補になった小御門優一郎くんは私の同級生で、彼はその課題でアイデアを思いついてしょうがないからといって、たしか8人分くらいのゴーストライターをやっていたんです。そうしたら小御門くんが書いた企画書が何本も選ばれて、とんでもない奴だなと思っていたら、その十年後に岸田賞の候補になっていて、やっぱすごかったんじゃん、と。ちなみに映画監督の鯨岡弘識くんも慶應志木高校の同級生で、私は一年で辞めてしまったんですが、軽音部の同期でした。