第286回:伏尾美紀さん

作家の読書道 第286回:伏尾美紀さん

2021年に江戸川乱歩賞を受賞したデビュー作『北緯43度のコールドケース』がはじめて書いた警察小説だったという伏尾美紀さん。第4作となる『百年の時効』で大藪春彦賞と吉川英治文学新人賞受賞と、瞬く間に熟達ぶりをみせる書き手はどんな読書遍歴を辿ってきたのか。探偵小説、警察小説、ノンフィクションなど、現在の執筆活動に繋がる読書体験が見えてきました。

その5「ノンフィクションと冒険小説」 (5/8)

  • 仁義なき戦い〈死闘篇〉 美能幸三の手記より (角川文庫)
  • 『仁義なき戦い〈死闘篇〉 美能幸三の手記より (角川文庫)』
    飯干 晃一
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  • 武闘派 三代目山口組若頭 (講談社+α文庫)
  • 『武闘派 三代目山口組若頭 (講談社+α文庫)』
    溝口敦
    講談社
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  • 孤狼の血 (角川文庫)
  • 『孤狼の血 (角川文庫)』
    柚月裕子
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  • 百年の時効
  • 『百年の時効』
    伏尾 美紀
    幻冬舎
    2,310円(税込)
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  • 猛き箱舟 上 (集英社文庫)
  • 『猛き箱舟 上 (集英社文庫)』
    船戸 与一
    集英社
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――その後、読書生活に変化はありましたか。

伏尾:ぱたっと小説が読めなくなる時期がきました。たぶん仕事のストレスだったんだと思います。仕事が忙しくなると、読んでいる小説が面白ければ面白いほど没入して、そこから抜けたくなくなるというか。せっかく本の世界に没入してこの世間の嫌なこととか全部忘れていたのに、また明日から会社に行って仕事をしなきゃいけないのが耐えられない、みたいに思って、小説が読めなくなった時期があったんですよね。
ただ、その頃も読むこと自体は嫌ではなかったので、めちゃめちゃノンフィクションを読みました。それが今すごく役に立っています。というのも、その時になぜかヤクザの実録ものにはまったんです。それこそ『仁義なき戦い』とか、溝口敦さんの『武闘派 三代目山口組若頭』とか。ヤクザの世界を書いたノンフィクションで新刊が手に入るものは新刊で買い、古本でしか手に入らないものは古本で買って、片っ端から集中的に読んだ時代がありました。のちに柚月裕子さんが『孤狼の血』を書かれた時に、「あ、これ私も知ってる」みたいな箇所があって、たぶん参考資料として同じものをお読みになったんだろうなと思いました。私も『百年の時効』でヤクザの抗争をちょっと出す時に、頭の片隅に当時読んだものが残っていたので調べものがすごく楽でした。あの時代に読んでおいてよかったなとつくづく思いました。

――なぜそこまではまったのでしょう。

伏尾:私が若い頃は本当にヤクザの抗争が頻繁にニュースで取り上げられている時代でしたが、私は北海道に住んでいてそういう抗争が間近にある状況ではなかったので、フィクションの世界に近い感じで受け止めていたと思います。それで、これは横山秀夫さんの警察小説にも通じるんですが、私は組織の中のゴタゴタを読むのが大好きなんですね(笑)。ヤクザの世界も結構ゴタゴタしていて、山口組内でも組長の座を狙ってしのぎを削るところで暴力ではない駆け引きがかなりあり、相手を出し抜いたりはめたりしているんです。一種の組織小説として読める部分があったので、そこにはまったのかなと思います。

――その後、小説はまた読むようになったわけですよね。

伏尾:はい。一時期、冒険小説にはまった時期がありました。たぶん、ヤクザものにはまって、そうしたアクション系から冒険系に流れたんじゃないかなと思うんですけれど、船戸与一さんの『猛き箱舟』とか、『砂のクロニクル』とか。印象的だったのがボブ・ラングレーの『北壁の死闘』で、それで山岳ものに興味がわいたんですが、山岳小説にいかずに山岳もののノンフィクションにいきました。それですごくはまったのが、1996年にエヴェレストで大量遭難が発生した事件を扱ったものでした。当時はお金さえ払えば誰でもエヴェレストに登れるような、商業的な登山が盛んだった時代で、それで大量の遭難者を出してしまったんです。亡くなったのは主にアメリカ人で、その時登山に参加していたアメリカ人ジャーナリストのジョン・クラカワーが後にそのことを『空へ エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか』というノンフィクションにまとめたんですね。当時これを読んで、私の中ではなんとなくジョン・クラカワーさんが言っていることに違和感があったんです。彼は顧客として登った人だから被害者意識もあるし、誰かを悪者にしたいのは仕方ないのかもしれないけれど、ちょっと論調が一方的すぎるなと感じました。その次に見つけたのが、『デス・ゾーン8848M エヴェレスト大量遭難の真実』という本で。これは大量遭難者を出した時にガイド役を務めていたアナトリ・ブクレーエフさんというロシア人の登山家側の話なんです。この人はクラカワーさんの『空へ』の中で、お前が戦犯だ、みたいな感じでものすごくけなされているんですね。お前がしっかりしていればあんなに遭難者は出なかった、くらいなことを言われた人なんです。それに反証する形で、ブクレーエフさんの話したことを別のジャーナリストが一冊の本にまとめたのが『デス・ゾーン8848M』です。それを読んだら、私がジョン・クラカワーさんの本に抱いた違和感みたいなものが、全部解決されたというか。ブクレーエフさんのお話を読むと、彼のほうが誠実な印象なんです。当時エヴェレスト登山が商業まみれになっているなかでブクレーエフさんはちゃんとプロ意識をもって、最後まで遭難者を救おうと尽力したけれど果たせず、生きて帰ってくるんですけれど。その時に日本人の難波康子さんという女性登山家も亡くなられたんですが、ブクレーエフさんはその最期に立ち会っているんですね。自分も危険な状態で難波さんの遺体を下ろすことができず、それを後悔して後にまたエヴェレストに登って難波さんの遺品を持ち帰って遺族に渡した、というところまで書いてあって。ブクレーエフさんとクラカワーさん、どちらを信じますかという話になったら、私は断然アナトリ・ブクレーエフ派だな、と思いました。

――ジョン・クラカワーって、『荒野へ』の著者のあの人ですか。

伏尾:そうですそうです。優れたノンフィクションを書いていて、割と好きなジャーナリストではあったんです。ノンフィクションって、だいたい当事者の片側の視点から書かれた本しかないので、同じ事故をふたつのサイドから見たものが読めたのは、貴重な読書体験だったなと思います。ただ、クラカワーさんのほうが名前があるので、『空へ』は今も売っているんですけれど、『デス・ゾーン8848M』のほうはもう古本でしか手に入らないんですよね。

  • 砂のクロニクル (上) (小学館文庫 ふ 4-8)
  • 『砂のクロニクル (上) (小学館文庫 ふ 4-8)』
    船戸 与一
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  • 空へ: エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか
  • 『空へ: エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか』
    ジョン クラカワー,Krakauer,Jon,正彦, 海津
    文藝春秋
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  • 空へ―「悪夢のエヴェレスト」1996年5月10日 (ヤマケイ文庫)
  • 『空へ―「悪夢のエヴェレスト」1996年5月10日 (ヤマケイ文庫)』
    ジョン・クラカワー,海津正彦
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    1,430円(税込)
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  • 荒野へ (集英社文庫)
  • 『荒野へ (集英社文庫)』
    ジョン・クラカワー,佐宗 鈴夫
    集英社
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