作家の読書道 第287回:夏川草介さん
現役の医師として働きながら、2009年『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞して作家デビュー、同作が第7回本屋大賞の2位にランクイン。その後も多くの読者を獲得してきた夏川草介さん。無類の読書家でもある夏川さんが親しんできた本たちとは? 本棚に囲まれた自室にいる夏川さんに、リモートでインタビューしました。
その2「夢中になった超大作漫画」 (2/8)
――小説以外で、図鑑や漫画、アニメなどで好きだったものはありますか。
夏川:うちはテレビゲームが駄目だというほかに、テレビアニメも「ドラえもん」と「サザエさん」以外は駄目だったんです。当時だと「ルパン三世」がすごく見たかったんですけれど、駄目と言われていました。「北斗の拳」も流行っていましたけど「あんな暴力的なものは駄目だ」と言われ、「シティーハンター」も「あれは品がなくてよくない」といって見せてもらえなかったんです。家で読めた漫画は『ドラえもん』と『三国志』でした。
――『三国志』ですか。
夏川:横山光輝の『三国志』は、友人の家で最初の3,4冊を読んでものすごく面白いと思ったので、自分で親に全60巻を週に1冊ずつ買ってくれと交渉したんです。母も最初は漫画だからと渋っていて、だったら吉川英治の小説の『三国志』を読みなさいと言っていたんですけれど、母も一緒に漫画を読み始めたところ、孔明が出てきて赤壁の戦いくらいになると母の方から「今日は3冊買ってきていいよ」とか言ってくれて。関羽や劉備が死んだあたりから、今度は「つまらないからもういいんじゃない」と(笑)。でも2人で漫画を買いに行くことができた数少ない思い出が、その『三国志』です。
漫画もその程度だったので、自分にとっての娯楽は小説だったのは確かです。物語が好きだったので、読むものの大半は小説でした。
――他に運動とか楽器とか、打ち込んだものはありましたか。
夏川:習い事は中3か高1くらいまで空手をやっていました。ただ、打ち込んだわけではないんです。私は昔から体が丈夫ではなくて、気も弱い人間でした。小学校の前半はどちらかというと学校が荒れていた時代で、いじめみたいなものもあって、そういうものを受ける側だったものですから、負けないようにと空手教室に放り込まれたんです。でも、人と闘うのがすごく嫌で。それでも7、8年通い続けて、一応黒帯初段までいきました。それとは別にピアノも3、4年習いましたが、打ち込んだという感じでもないです。
夢中になるものは何もなかったかもしれません。中学校に行って自己紹介を書く時も、趣味や特技の項目に何を書けばいいのか分からない感じでした。自分をうまくアピールできないほうだったと思います。
――ご両親は教育に熱心な、厳しい方だったのでしょうか。
夏川:厳しくはあったんですけれども、共働きだったので、学校から帰ってきても家にいないものですから、あれこれ拘束するほうではなかったですね。こっそりテレビを見るくらいはできて、「ルパン三世」を見たらすごく楽しかったです(笑)。
――ご出身は大阪ですよね。
夏川:高槻市といって、梅田と河原町の間というか、京都と大阪の間にあるベッドタウンです。阪急電車が通っている比較的新しい住宅街で、そういう意味では都市部という印象ではないですね。
――近くに書店や図書館はありましたか。
夏川:図書館は近くにはなかったですね。本屋さんは小さな個人店舗がふたつあって、『三国志』を買ったのはそのうちの片方でした。本当に小さな小さな本屋でしたから、中学生になってはじめて梅田の紀伊國屋書店に行って、あまりの大きさにびっくりしたのを憶えています。2回目くらいに友達と行った時、もともとちょっと方向音痴のところがあるので、一人で歩き回っていたら店から出られなくなってですね。出口が分からくて店員さんに泣きついた記憶があります。本屋さんの中で迷子になるという不思議な経験をしました。
――こんなに本があるんだという、ワクワク感もあったのでは。
夏川:そうですね。曲がっても曲がっても本があるし、ジャンルも違うし。梅田の紀伊國屋書店に行って、小説以外の本も手に取るようになりました。当時はピアノを習っていたので、楽譜がたくさん置いてあったのも発見でした。ジブリの「天空の城ラピュタ」の楽譜を買ったのも紀伊國屋書店だったと思います。
――あ、ジブリの映画は観ることができたのですか。
夏川:そうなんですよ。ジブリは、金曜ロードショーで見てOKでした(笑)。数少ない特別な時間でした。
――学校の勉強はいかがでしたか。
夏川:成績はいいほうではありましたが、これが得意というのはなく、どれもこれも飛びぬけたものではなかったです。
私は公文をやっていたんです。母親の方針なのか、基礎的な学力を身に着けるという意味でひたすら計算問題と漢字をやっていて、いろんな問題を解いていたわけじゃないんですが、小学校では成績はかなり上位でした。中学受験のために小学5年生から塾に通っていたので、そういう意味では確かに親はある程度教育熱心だったのかもしれないですね。当時、中学受験するのはその小学校の中で私一人しかいませんでした。高槻の塾でもまあまあ成績がいいほうだったので、塾の先生が、大阪の梅田にある本校に行ったほうがいいと言って紹介をしてくれて。そっちに行って初日にテストを受けたら、30人くらいのクラスの中で最下位だったんですよ(笑)。そこで世界の広さを痛感したのをよく憶えています。その時の恥ずかしさとか惨めさみたいなものは忘れられないですね。関西には灘とか東大寺学園とか洛南とか、日本でもトップクラスの私立中学がたくさんあるんですが、そういう世界を目指して必死で勉強している同級生たちに、私はまったく及びませんでした。当時は辛かったけれど、いい経験をしたと思っています。


