作家の読書道 第287回:夏川草介さん
現役の医師として働きながら、2009年『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞して作家デビュー、同作が第7回本屋大賞の2位にランクイン。その後も多くの読者を獲得してきた夏川草介さん。無類の読書家でもある夏川さんが親しんできた本たちとは? 本棚に囲まれた自室にいる夏川さんに、リモートでインタビューしました。
その5「夏目漱石と哲学書」 (5/8)
――医学部は勉強が大変だと思うのですが、高校時代より読書量が増えたのですか。
夏川:まあ本当は勉強をしなきゃいけないんですが、当時の医学部は今ほど厳しくもなく、特に最初の2年間は教養課程で、医学の勉強はあまり始まらないんです。今の医学部はもう1年目からどんどん勉強させるようになってきていますけれど。
で、はじめて長野に来てみたら、とにかく寒い。4月に来て最初の1か月でもう気管支炎になりました。あまり寒いのが得意ではないこともあり、寒さのためにすごく苦労したんですね。もう30年前の話ですけれど、あの頃は3月末に大阪で桜が散るのを見てこっちに来たらゴールデンウィークに桜が咲くので、もう全然違う国に来たんだ、と思いました。真冬は朝起きるとアパートのキッチンに置いてあった鍋の味噌汁が凍っているんですよ。そういう場所だったので、もともと無趣味だった私はどこにも出かける気がなくなってですね、完全に家の中にいるんです。そうすると、やることといえば本を読むことだという。せっかくなら片っ端から読もうと思い、夏目漱石などの明治の文豪を本格的に読むという目標を作りました。手あたり次第に読んでいたのが大学1年から4年までだったと思います。
――夏川さんの『神様のカルテ』の主人公、栗原一止は夏目漱石の愛読者ですよね。やはり夏目漱石が面白かったですか。
夏川:私の中で夏目漱石は別格ですが、あの時代の有名な作家は、順番に幅広く読みました。夏目漱石、森鴎外、幸田露伴、樋口一葉、内田百閒、さらに遡って二葉亭四迷とか、『小説神髄』の坪内逍遥とか。片っ端から読んで、自分の中にいろいろ文学の地図ができていって、私小説は面白いけれど、自分にはそこまで響かないと感じたのもこの頃で、例えば田山花袋の『蒲団』を読んで、面白いけれどちょっと下品かな、こんな話そこまで聞きたくないかな、みたいに思ったり(笑)。若気の至りかもしれませんが、訴えかけるものに哲学がないなという印象を持ちました。
幸田露伴は文章がすごく美しいと思い、その系譜で泉鏡花や、中江兆民の弟子の幸徳秋水にも手を延ばして、内容より先に文章そのものに惹かれて読めるだけ読みました。
ちょっと毛色の違うところで、志賀直哉の『暗夜行路』は大切にしている作品です。志賀直哉の他の作品はそんなに好みではありませんが、『暗夜行路』は違います。あれは書名からも分かるように、真っ暗な夜道を歩くような辛い生活が描かれるんですね。でも主人公の時任謙作の、叩かれても叩かれても立ち直っていく強さと、他者を攻撃せずに自分の中で決着させて次の人生に進んでいく姿に、私からするとある種の格好よさがありました。
そうした色々な作品の中でも別格の存在感があったのが夏目漱石だったんです。作品全体の中に何か自分の探していたものを見つけたような感覚でしょうか。たとえば、世界がどんどん変わっていく中で古い道徳を壊すのはいいけれど、壊す時は新しい道徳を作ってからにしなさい、というようなことを言うんですよね。アレキサンダーでもナポレオンでも、勝って満足した人は一人もいないんだよ、とか。言葉の隅々に、何か自分が探しているもの、自分が疑問に思っていることに答えてくれるものがある気がしました。勝てば官軍ではないし、理屈が通らなくても大事なことはあるし、それこそ『坊ちゃん』にありますけれど、金とか地位が全部じゃないっていう、ごく当たり前のことが、切実に力強く自分の中に入ってくるものですから、漱石は特別な作家として繰り返し読みました。その文章も物語も哲学も、それぞれに響くものがありますし、漱石が書いた手紙にも味わい深いものがたくさんあります。
――ご自身のペンネームも漱石からとったのですか。
夏川:夏目漱石と川端康成と『草枕』と芥川龍之介ですね。その三人の作家は別格で、それぞれに私の中にすごく大きなものを残してくれています。たとえば、芥川龍之介の『歯車』を読んだ時は、まるで私のことを話しているのかと感じました。その頃は自分も世の中とうまく嚙み合わず、部屋に閉じこもって延々と本を読んで、ちょっと体を壊すくらい酒ばかり飲んでいる人生だったものですから、自分だけじゃないんだっていう感覚があったりして。川端康成の『古都』を読んだ時は、高校時代に京都の予備校に通っていたので懐かしく感じましたし、今はなくなってしまった景色が繊細で美しい言葉で表現されているなと思いました。そして、自分の中の不安を言語化してくれるような漱石の哲学ですよね。この三人はやっぱり特別だったと思います。
――哲学関係の本も相当読まれていると思うのですが、それは大学時代ですか。
夏川:大学時代ですね。その頃から自分なりに探している何かがあったんですよね。ぼんやりと、世の中が向かっている方向と、自分の生きたい方向がうまく合っていない感覚がありました。何がこんなに嫌なんだろうとか、なんでこんなに自分の居場所がない感覚がするんだろうと思っていました。
今はある程度言語化できるんです。たとえば今の世の中って、自分らしく生きることを大事にしなさいと言うけれど、私はそれに強くは賛同できなくて。自分を大事にすること自体はいいんですけれど、人間は一人では絶対に生きられなくて誰かと関わって生きていますから、自分らしさと同時に他人らしさも絶対重要だという感覚を、私は昔から強く持っているんです。体が丈夫ではない人間だったので、いろんな人に助けてもらいながらやってきているので、どんなに「自分らしさ」と言っても、結局みんなにお世話にならないとやっていけない。だから、自分らしく自分らしくと言って、自分のやりたいことをアピールしろという社会の方向に対して、ちょっと違う感覚を抱いてしまうんだと思います。
YouTubeのCMなどを見ていると、奇抜な格好をすることが自分らしさだとか、他人と違うものを持つことがその人らしさだとか、新しい自分を見つけようとか、本当にあなたのやりたいことは何ですか? みたいなことを延々と問われるんですけれど、人間ってそんなに明確にやりたいことがあるわけでもないし、髪の毛を染めたから自分らしくなることもない、と感じます。私はどちらかというと空っぽな人間で、そういう人間にとって自分をアピールするようにと言われ続けるのは息苦しく感じます。
私は当時から、自分の見た目をどうするわけでもなく、携帯電話を初めて持ったのも同級生の中ではかなり遅い大学生の終わり頃で、時代とのずれを感じながら生きている人間だったんです。なので、哲学関係の本を読みだしたのは、興味本位で読み始めたというより、自分の中でいろいろ探しているものがあったからだと思います。最初にニーチェの本を偶然手に取ったら、何か元気づけてくれるような気がして。ニーチェは結構厳しいことを言うので本質的に私はそんなに賛同はしていないんですが、生きていくことの苦しさみたいなもの、人間は孤独だということをしっかり認めている発言に対して、勇気をもらう感覚がありました。私はニーチェ全集で全部読んだんです。やっぱり全集で読むと間違いなくその人に出会える感覚がありますね。その人の思想を知りたければ全集で読む。そうするとその人と対話できるという。今も私の中にニーチェがいて、困った時はニーチェだったらこう言うだろうなどと、頭の中で対話します。
他に全集で読んだのは柳田國男やスピノザで、小林秀雄はあと2冊くらいで全集を読み終わります。ギリシア時代の作品に関しては2、3冊しか本を残していない人たちもいるんですが、そういうものを順番に読んでいくと、自分なりに探している答えに出合えるという感覚があります。西洋哲学に限らず、『論語』や『孟子』、老荘の書籍も私にとっては大事な道しるべで、時々読み返しています。
――ニーチェ全集は新刊で手に入ったのですか。
夏川:本棚のここにあるんですが、買ったのではなくもらったんだと思います。たぶん祖父の家に古い漱石全集とニーチェ全集があったんだと......。(本棚から1冊出して)白水社から出ていますね。発行が1980年とあるので、そこまで古くはないですね。
小林秀雄の全集は学生時代に古本屋さんで見つけました。店員さんにお願いして、今買うからちょっと安くしてとお願いして。
――哲学関連の本は、難しいと感じることなくすらすらと頭に入ってきましたか。
夏川:ニーチェはまあ6割くらいは分かるんですが、全然分からない作品もたくさんあります。たとえばスピノザの『エチカ』を読んでいる最中は全然意味が分からなかったです。今読んでいるのはカントの『純粋理性批判』ですけれど、これも分からない。でも先ほど言ったように、昔から本は最後まで読む癖がついているので、分からなくても最後まで読むんです。すると、最後まで読んだ時に急に見えてくる作品がある。読み終えて2、3年経ってから急に分かってくる作品もあります。特に歴史に残っている哲学の作品というのは、数年経って分かるパターンが多いです。不意に「スピノザはこのことを言っていたんだ」とか「『エチカ』はこれをやろうとしていたんだ」と、スッと出てくる。ニーチェも、大学の時に全部読み終えた後もよく分からない部分があったんですが、そこから1、2年の間にだんだんニーチェという人物像が立ち上がってくる感覚がありました。やはり本を最後まで読み通すことに意味はあるのかもしれません。途中でやめてしまうと、こういう感覚にはたどり着けない気がします。
――2,3年経って分かってくるということは、書かれてある内容を記憶していたってことですか?
夏川:別にずっとスピノザのことを考えているわけじゃないんですよ。ただ、たとえば、私の中にお金がすべてじゃない、とか、どんな理由があっても弱いものいじめをしてはいけないと感じているのに世の中なかなかそうはいかないな、などと、ぼんやりとずっと考えていることがあるんですよね。その枝葉のひとつがスピノザであったり、ニーチェだったり、漱石だったりするんです。それで、たとえばデイヴィッド・ヒュームも好きな哲学者の一人ですけれど、ヒュームの作品を読んでいる時に突然、スピノザが何を言っていたのか分かるという感覚がある。そういえばスピノザがあんなこと言っていたな、と。
読書はたぶん、書かれてある言葉をそのまま情報として理解すること以外のものがある気がします。そういう意味では、ミステリーって、基本は情報合戦ですよね。いくつかの伏線を敷いて、それを順々に回収して、情報を全部集めて謎が解かれた瞬間、一種のカタルシスが来る。そういう読書とは違う読書があるんです。ミステリーを楽しむときはミステリーの頭になっているんですけれど、カントを読んでいる時にそういうふうに情報をきっちり理解して汲み取ろうとしていると、もう1ページも読めません。
哲学関係の本を読むときは、意味がつかみにくくても、とにかく丁寧に言葉を追っていって、斜め読みはせずにちゃんと文章を読んでいく。どうしてもぼんやりとして頭に入らなくなった時は音読します。それで進めていって、読み終えて、いつかきっとまた何か教えてくれよと言って本棚に置いておくとですね、ある時ふっと気づかされることがある感じです。
――とりわけ好きな哲学者を一人あげるとしますと。
夏川:たぶん、ものを考える人としていちばん好きなのはソクラテスだと思います。あまりに王道かもしれませんが。ただ、ソクラテスは1冊も本を書いていないんです。ソクラテスは本を書くことに意味がないとはっきり言っている人で、何か知りたければ直接会話しなさいと言っている。自分がそういう人を好きだというのは不思議でもありますが、面白いところだなと思います。
――ソクラテスは対話篇を読んで面白いと思ったわけですか。
夏川:そうですね。ソクラテスが出てくる作品はいっぱいあるんですけれど、全部プラトンが書いているんですよね。『ゴルギアス』とか『テアイテトス』とか『パイドロス』とか『プロタゴラス』とかは、全部ソクラテスとある人物の対話をプラトンが書いている作品です。それらを読むと、ソクラテスはただ思慮深いだけの人物ではなく、疑問に対する執念深さとか、容赦なく相手を追及する部分もあって、かなりの変人に見えてきます。それも含めてすごく魅力的な人物だと感じます。
















