コラム / 高橋良平

ポケミス狩り その18
「ふたつの顔をもつ作家たちの巻」

  • 地下道の鳩: ジョン・ル・カレ回想録
  • 『地下道の鳩: ジョン・ル・カレ回想録』
    ジョン・ル・カレ,加賀山 卓朗
    早川書房
    2,750円(税込)
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  • 英国諜報員アシェンデン (新潮文庫)
  • 『英国諜報員アシェンデン (新潮文庫)』
    モーム,サマセット,Maugham,William Somerset,瑞人, 金原
    新潮社
    737円(税込)
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  • ヒューマン・ファクター―グレアム・グリーン・セレクション (ハヤカワepi文庫)
  • 『ヒューマン・ファクター―グレアム・グリーン・セレクション (ハヤカワepi文庫)』
    グレアム グリーン,Greene,Graham,卓朗, 加賀山
    早川書房
    1,144円(税込)
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 とある土曜日、紀伊國屋書店・新宿南口店の6F洋書フロア(現在のBooks Kinokuniya Tokyo)で〈Entertainment Weekly〉の最新号を求めたあと、いつものように書棚をチェック。新着コーナーで、ジョン・ル・カレの回想録『The Pigeon Tunnel: Stories from My Life 』を見かけるが、そのボリュームの薄さに、ちょいとがっかりした。お隣りに平積みされているル・カレの評伝(著者名は失念)が大冊だから余計に見劣りがするし、パラパラ見た感じで、気ままな思い出話の軽い読み物に思えたのだ。

 ところが、半年ほどして訳された『地下道の鳩』(加賀山卓朗訳・早川書房・2017年3月)のページを繰ると、そんな予断はあっさり吹き飛ぶ。短い章立て構成だけれど、読みでがあってじつに興味深い。

 たとえば、第1章のこんな記述に、驚かされる。

〈過去百年以上にわたって、われらがイギリスのスパイは、自分たちを描く傍迷惑な小説家と、取り乱しながらときに滑稽な愛憎劇をくり広げてきた。(中略)そして一九一四年から一八年の戦争とともに、サマセット・モームが現われた。モームはイギリスの諜報員だったが、一般には、あまり腕利きではなかったと言われる。彼の作品『アシェンデン』が公職守秘法に違反しているとウィンストン・チャーチルが難じると、同性愛のスキャンダルがらみの脅迫もあって、モームは十四作の未発表原稿を焼却し、残りの作品の出版も一九二八年まで延期した〉


 ということは、英国諜報員アシェンデンを主人公にした連作が、各作の長短は不明なものの、もう1冊分は書かれていたということか! これが周知の事実かどうかは知らないけれど、1928年に上梓した『アシェンデン』----ポケミス版は加島祥造訳(61年3月)----の1冊だけで、モーム〜グレアム・グリーン〜エリック・アンブラーというシリアス・スパイ小説の系譜を云々されるほどの里程標になったのだから、焼却されてなかったら......と、評価は変わらないにしても、惜しまずにはいられない。

 ちなみに、『アシェンデン』は、ヒッチコックが英国時代にコメディ要素を加味して映画化----邦題は《間諜最後の日》(36年)----している。アシェンデン役はジョン・ギールグッド、共演はピーター・ローレ、マデリーン・キャロル。

 さらに蛇足を記すと、この映画と原題が同じ《シークレット・エージェント》The Secret Agent(96年)というボブ・ホスキンス主演、クリストファー・ハンプトン監督作品があるが、こちらは、ヒッチコックの《サボタージュ》(36年)と同じくジョゼフ・コンラッドの『密偵』の映画化である。

 パリに生まれ、1965年にニースの地で91年の生涯をとじた英国の劇作家・小説家のモームは、『人間の絆』(15年)、それにつづく『月と六ペンス』(19年)がベストセラーになると同時に世界的な流行作家として著名になるが、自らの宣言どおりに実行、59歳で劇作の、74歳で小説の、84歳でいっさいの著作の筆を断っている。その後、世界を漫遊(来日もしている)。

 54年10月、新潮社が全集の刊行をはじめ、当初の27巻構成から追巻されて、『モーム研究』を含む全31巻は約5年がかりで完結。その後、この全集を底本に新潮文庫に何点も収められ、いまも代表作は在庫あり。また、新訳版もある岩波文庫は、愛情と毒気のあるユーモアに満ちた刺激的な名著『世界の十大小説』上下巻(ぼくは岩波新書の青版で読んだ)や『読書案内ー世界文学ー』(ともに西川正身訳)なども収めている。それにしても、モーパッサンと並ぶ短篇の名手でもあった文豪モームの作品中でも、国書刊行会の[世界幻想文学大系]に再録された『魔術師』(田中西二郎訳)や、最近も新潮文庫で新訳されるほど、数種の翻訳がある『アシェンデン』は、異色作といえるだろう。

 グレアム・グリーンの場合は、自作を本筋の"カトリック文学"と"エンタテインメント"とに断って出版する癖があり、"エンタテインメント"路線では、晩年の『ヒューマン・ファクター[新訳版]』(加賀山卓朗訳・ハヤカワepi 文庫"グレアム・グリーン・セレクション")まで、スパイ小説を書きついでおり、発表の都度、ミステリ界に大きな話題をまいた。

 そのうちの1作、『密使』The Confidential Agent,1939 は、版権を取得した早川書房が1951年に単行本で初刊、同社が準倒産状態から株式会社化されたのちの53年に全7巻で組まれた最初のフランス装[グレアム・グリーン選集]に再録したから、ポケミス版(北村太郎訳)は3度目のお務めであった。なお『密使』の翻訳は、以前の2点が伊藤尚志・北村太郎の共訳版、のちの全15巻の函入[グレアム・グリーン選集]、全25巻の[グレアム・グリーン全集]には青木雄造の新訳版が収められている。

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 江戸川乱歩は、ニコラス・ブレイクの『野獣死すべし』(黒沼健訳・54年2月)の解説で、こんなことを書いている。

〈私は今から約二十年前、昭和十年度の「ぷろふいる」誌に「探偵小説と文芸的なるもの」という随筆を書き(後に拙著「随筆探偵小説」に収む)、セイヤーズの評論に基いて、他の文筆領域に於ける知名作家にして探偵小説に筆を染めた人々の名を挙げて、そういう人々の方が、専門の探偵作家よりも、優れた作を書いている場合が多いことを指摘した。(中略)これらの一流作家が探偵小説に筆を染め、その多くが成功しているという現象は、イギリス以外の国には見られぬところである。イギリスが世界一の探偵小説国たる所以である。/この伝統は今もなお続いている。ある意味で現代イギリス文壇の第一人者と云ってもよいグレアム・グリーンが、探偵小説愛好者であることは周知の通りで、彼の所謂「エンターテインメント」の作品は、広い意味のミステリー文学に属するものである。小説壇のグリーンに対して詩壇のセシル・デイ・ルイスがある。デイ・ルイスも現英詩壇第一流の詩人であり、近くはオクスフォード大学の由緒ある詩学教授に選ばれて、一層その名声を高くしている。この人がニコラス・ブレイクの筆名で二十年来探偵小説(主として本格もの)を書いており、探偵作家としてもイギリス屈指の盛名を持つている。(中略)イギリスにはまだほかにも、これに似た立場の作家があるが、これら教養深き人々が、まじめに探偵小説を書いているということが、イギリス探偵小説の比類なき強味であり、同国が世界の探偵小説界に君臨している理由である〉

 ......そういえば、都筑道夫さんは、詩人のセシル・デイ・ルイス(1904-1972 )と言っても若い人には通じないから、アカデミー賞俳優のダニエル・デイ・ルイスの父親だって説明するんですよ、と腐りつつ面白がっていたナぁ、なんてことを思い出す。

 乱歩さんが名を挙げた作家のうち、ぼくが具象画カバー版のポケミスを現在入手しているのは、著名な歴史ロマン作家・劇作家のA・E・メースン(1865-1948 )の『矢の家』(妹尾アキ夫訳)、ディズニーでアニメ化された児童文学『クマのプーさん』シリーズが著名なA・A・ミルン(1882-1956 )の『赤い家の秘密』(妹尾アキ夫訳)、"ノックスの十戒"で知られるローマン・カトリックの大僧正ロナルド・ノックス(1888-1957 )の『陸橋殺人事件』(井上良夫訳)がある。『赤い家の秘密』にしても『陸橋殺人事件』にしても、作中にシャーロック・ホームズへの言及があるのが、微笑ましい。



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『伯母の死』(宇野利泰訳)のC(クリフォード)・H(ヘンリー)・B(ベン)・キッチン(1895-1967 )は、探偵小説よりもメイン・ストリームの作品を多く残したが、本業は英国の弁護士で、ロンドンの株式仲買人組合のメンバーでもあった。

『二月三十一日』(桑原千恵子訳)のジュリアン・サイモンズ(シモンズ)は、デイ・ルイスと同じく詩人であり伝記作家であったが、探偵小説ばかりかミステリ評論や犯罪研究でもよく知られている。

 こうなると、どちらが本業でどちらが副業かわからないが、専業作家の少ない英米では、二足のワラジは珍しくない。

『ワイルダー一家の失踪』(西田政治訳)の米国人ハーバート・ブリーン(1907-1973 )は、返金保証の禁煙指南書、というかユーモア・エッセイの『あなたはタバコがやめられる』(HPB1001/木々高太郎訳・56年1月)がベストセラーになって早川書房に貢献した作家のひとりだが、本業はジャーナリスト、大判の週刊グラフ誌〈ライフ〉の編集者勤めもしている。

 ともすればマンネリズムに閉塞しがちな傾向がみられるジャンルが、こうした異業種乱入(?)で、風通しがよくなり、豊かになるのは、昔も今も変わらない。

 日本の例では、文壇からは探偵小説趣味が嵩じての腕試し、坂口安吾の『不連続殺人事件』、福永武彦の諸作、大岡昇平の『事件』などがすぐに思い浮かぶ。

 57(昭和32)年、乱歩さんは、探偵小説誌〈宝石〉の窮状を救おうと私財を投じ、責任編集に就くと、ほかの分野で名を成す人に会うたびごと、〈宝石〉にミステリ執筆を促した。そのもっとも成功したひとりが演劇畑の戸板康二で、氏の生んだ老歌舞伎役者・中村雅楽を名探偵とする短篇シリーズ中の一篇「團十郎切腹事件」が、直木賞を受賞することになる。


1959(昭和34)年・下半期[奥付準拠]
  7月10日(HPB 503)『湖中の女』R・チャンドラー(田中小実昌訳)
  7月15日(HPB 452)『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』ドイル(大久保康雄訳)
  7月15日(HPB 482)『殺人混成曲』M・マナリング(都筑道夫・他訳)
  7月15日(HPB 496)『もの憂げな恋人』E・S・ガードナー(三樹青生訳)
  7月15日(HPB 498)『火曜クラブ』A・クリスティー(中村妙子訳)
  7月15日(HPB 499)『餌のついた釣針』E・S・ガードナー(船戸牧子訳)
  7月25日(HPB 501)『ブロンド』C・ブラウン(野中重雄訳)
  7月30日(HPB 497)『首つり判事』B・ハミルトン(井上一夫訳)
  7月31日(HPB 500)『殺人をしてみますか?』H・オルズカー(森郁夫訳)
  7月31日(HPB 502)『完全主義者』R・カウフマン(宇野輝雄訳)
  8月15日(HPB 504)『邪悪の家』A・クリスティー(田村隆一訳)
  8月31日(HPB 505)『弓弦城殺人事件』C・ディクスン(加島祥造訳)
  8月31日(HPB 507)『ドアのない家』T・スターリング(佐倉潤吾訳)
  9月15日(HPB 506)『聖アンセルム九二三号室』C・ウールリッチ(宇野利泰訳)
  9月15日(HPB 508)『大胆なおとり』E・S・ガードナー(中村能三訳)
  9月25日(HPB 510)『明日に賭ける』W・P・マッギヴァーン(峯岸久訳)
  9月30日(HPB 509)『死はわが踊り手』C・ウールリッチ(高橋豊訳)
  9月30日(HPB 511)『ドクター・ノオ』I・フレミング(井上一夫訳)
  9月30日(HPB 512)『ニューゲイトの花嫁』J・D・カー(村崎敏郎訳)
  10月15日(HPB 513)『高い窓』R・チャンドラー(田中小実昌訳)
  10月15日(HPB 515)『切られた首』C・ブランド(三戸森毅訳)
  10月30日(HPB 514)『埋められた時計』E・S・ガードナー(中田耕治訳)
  10月31日(HPB 517)『ゆがんだ光輪』C・ブランド(恩地三保子訳)
  10月31日(HPB 518)『プレイバック』R・チャンドラー(清水俊二訳)
  10月31日(HPB 519)『恐ろしい玩具』E・S・ガードナー(高橋泰邦訳)
  11月15日(HPB 520)『パーカー・パイン登場』A・クリスティー(赤嶺彌生訳)
  11月15日(HPB 522)『ポアロ登場』A・クリスティー(小倉多加志訳)
  11月30日(HPB 521)『第八の地獄』S・エリン(小笠原豊樹訳)
  11月30日(HPB 523)『さらばその歩むところに心せよ』E・レイシイ(野中重雄訳)
  11月30日(HPB 524)『エイプリル・ロビン殺人事件』ライス&マクベイン(森郁夫訳)
  11月30日(HPB 525)『震えない男』J・D・カー(村崎敏郎訳)
  12月15日(HPB 516)『悪の起源』E・クイーン(青田勝訳)
  12月15日(HPB 526)『なぜ、エヴァンスに頼まなかったのか?』A・クリスティー(田村隆一訳)
  12月15日(HPB 527)『お楽しみの埋葬』E・クリスピン(深井淳訳)
  12月25日(HPB 533)『検事封を切る』E・S・ガードナー(平出禾訳)
  12月31日(HPB 529)『死のスカーフ』E・S・ガードナー(宇野利泰訳)
  12月31日(HPB 530)『警官嫌い』E・マクベイン(井上一夫訳)
  12月31日(HPB 532)『恐怖の冥路』C・ウールリッチ(高橋豊訳)
  12月31日(HPB 534)『死と空と』A・ガーヴ(福島正実訳)

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