『これは水です』デヴィッド・フォスター・ウォレス

●今回の書評担当者●梅田蔦屋書店 三砂慶明

  • これは水です
  • 『これは水です』
    デヴィッド・フォスター・ウォレス
    田畑書店
    1,296円(税込)
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 何の本だろう?
 タイトルが気になって手に取ると、一頁目から引き込まれました。

 本書はアメリカの大学の卒業式で行われたスピーチをまとめた本です。
 アメリカのポストモダン作家、ウォレスがケニオン・カレッジの卒業式に招かれて、壇上にあがったとき、二匹の金魚が泳ぐ鉢が飾ってあったそうです。このスピーチは、その金魚鉢の水からはじまります。

 アメリカの大学では、慣例で卒業式に学外の有名人を招いて名誉博士号を授与して、その返礼にスピーチしてもらう祝辞の習慣があります。アップルの創業者スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学で、「stay hungry, stay fool(ハングリーのまま、愚直のままでいよう)」と語ったのが有名ですが、基本的には明るく、これからを生きる若者たちへのはなむけの言葉です。

 しかしながら、この本はむしろ真逆で、気の利いたジョークでも、小賢しい教訓でもありません。

「アメリカの社会人の暮らしの 大部分をなすものを 卒業式のスピーチでは だれも言おうとしません。そこにあるのは 退屈 決まりきった日常 ささいな苛立ちです。」

 と、社会に出た若者たちが味わうだろう救いのない毎日を表現しています。

 ウォレスがすごいのは、なぜ決まりきった日常が、退屈で、ささいな苛立ちに満ちているかの「理由」をとことん突き詰めていくことです。ウォレスはそれを、無意識のまま自己を世界の中心に位置づけているからだと喝破します。私たちが無意識に、お金や物、名誉や権力にひきずられていているのだと。

 そして、この状態こそが実は私たちの初期設定で、この初期設定をアップデートしていくことこそが、リベラルアーツ、すなわち、ほんとうの教育がもたらす自由なんだ、と語ります。「頭蓋骨サイズのちっぽけな王国で ふんぞり返る暴君」から「広大な外の世界」へと踏み出すためにはどうすればいいのか?

 成績や単位とは無縁で、他者への思いやりと敬意をもつこと。もっと簡単にいうと、誠実に自分とそのまわりに生きる人と向き合うこと。

 それを毎日つづけることは、想像を絶するほど困難ですが、もしそれに成功すれば、あなたの人生はきっと豊かになる。すくなくとも何が現実で、ほんとうに大切なのは、誰であり、何なのか。それを考えることができるようになる。

 本当にシンプルなメッセージなのですが、この本を読んだあとに泣けるのは、

「三十歳になるまで いや、たぶん、五十歳になるまでには どうにかそれを身につけて 銃でじぶんの頭を撃ち抜きたいと 思わないようにすることなのです。」

 と語ったウォレス自身が生き残れなかったことです。

 抗うつ剤をのみ、病院に通い、なんとか生きようとしたウォレスは、自殺に成功してしまいます。
このスピーチが何度読んでも胸にせまるのは、やはりウォレス自身が、かつての自分に言い聞かせるように、あくる日も、あくる週も、あくる月も、あくる年も延々とつづく無意味としか思えない日常に、とんだペテンとウソいつわりに痛い目をみないようにと、裸の真実を語っているからだと思います。この世を生きるために大切なことは、本から学ぶことができるのだということに改めて気づかされました。

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梅田蔦屋書店 三砂慶明
梅田蔦屋書店 三砂慶明
1982年西宮生まれの宝塚育ち。学生時代、担当教官に頼まれてコラムニスト・山本夏彦の絶版本を古書店で蒐集するも、肝心の先生が在外研究でロシアに。待っている間に読みはじめた『恋に似たもの』で中毒し、山本夏彦が創業した工作社『室内』編集部に就職。同誌休刊後は、本とその周辺をうろうろしながら、同社で念願の書籍担当になりました。愛読書は椎名誠さんの『蚊』「日本読書公社」。探求書は、フランス出版会の王者、エルゼヴィル一族が手掛けたエルゼヴィル版。フランスに留学する知人友人に頼み込むも、次々と音信不通に。他、読書案内に「本がすき。」https://honsuki.jp/reviewer/misago-yoshiaki