『青春のジョーカー』奥田亜希子

●今回の書評担当者●丸善お茶の水店 沢田史郎

 世界で最初に新型コロナウィルスの標的になった、中国・武漢市。かの地で、ロックダウンの一部始終を体験した作家・方方さんが綴った『方方日記』のことは、媒体を問わず広く報道されたから、ご存知の方は多かろう。その2月24日の項に、次のような文章があるそうだ。

《一つの国家が文明的かどうかを計る尺度は、高層ビルが多いとか、車が速いとか、強大な武器や軍隊を持つとか、発達した科学技術、優れた芸術、派手な会議や光り輝く花火や、全世界を豪遊し、モノを買いあさる観光客が多いかどうかではない。尺度はたった一つ。それは、その国の弱者に対する態度なのです》

 まさしく至言だと思う。と同時に、それは国家に限ったことではないのかも知れないな、とも思う。国でも村でも会社でも、そして一人一人の個人でも、"弱者に対する態度"こそが、その器の大小を決めるのではないだろうか。

 といった感慨を覚えながら、奥田亜希子『青春のジョーカー』(集英社)を再読した。
 刊行当時、TVや新聞で採り上げられる度に、本書は"思春期の性"をリアルに捉えた作品であると評された。
 思春期に於いては──とりわけ男子の間では──性的にオクテな者は幼稚と見做され、それだけで嘲りの対象となる。逆に、性に早熟であることはそのままステータスに直結し、異性にモテる者は、スクールカーストでも上位として認められる。故に、教室や部活動や塾といった集団内で、弱者が浮上する為の切り札=ジョーカーとなるのが、"性"である。
 各種の書評では、それこそが本書のテーマとして紹介された。

 間違いだとは言わない。が、それだけではこの作品の上っ面をなぞっただけであると断言したい。この物語に流れるメッセージは、もっと普遍的でヒューマンなものである。

 中学3年の島田基哉は、勉強もスポーツも、ルックスも会話のセンスも、どこを探しても際立ったところが見つからないマイナー系。同じくマイナー系の友人と教室の隅でゲームの話に興じつつ、メジャー系の生徒たちからジョークのネタにされないように身を縮こまらせている。まるで、天敵を恐れて岩陰で息をひそめる野ネズミの如く、オドオドしながら学校での時間をやり過ごしている。

 が、ある時、ふとした縁で仲良くなった女子大生の双葉のことを、"彼女"だと勘違いされたことから、彼は図らずもメジャーデビューすることになる。
 ヒエラルキーの頂点に君臨し、ウケる為なら平気で自分たちを嗤い者にしてきたメジャー系の生徒たち。その仲間入りを果たしたことで基哉は、からかわれて晒し者にされる恐怖からも、ジュースを奢らされる理不尽からも、グループ分けで一人あぶれる不安からも解放される。それどころか、ずっと片思いを続けていた女子とも急速に親しくなって、灰色だった学校生活は一変する。

 しかし、メッキはいつかは剥がれるのが宿命である。
《偽物のジョーカーで、裏技で、向こう側に行こうとしたことが、そもそもの間違いだったのだ》
と、基哉が思い知らされる時が来る......。

 といったストーリーの至るところで強調されるのは、強者への恐れと憧れ、そして弱い自分への失望。
《自分は総理大臣にも俳優にもなれない。それと同じで、クラスの人気者になることも、異性から好かれることもない。おそらくは、強者の影に怯えて一生を過ごす》

 とは言え、この時の基哉に、"強さ"とは何なのかが分かっていたとは思えない。現に、双葉から《誰かに勝つことが強さじゃないよ》とたしなめられて、《だったら、強さってなんですか》と反発したりしている。

 ところが、だ。スクールカーストの下位の切なさも上位の優越感も体験した彼の中に、自らは気付かないうちに、ある思いが醸成されてゆく。それを一言で言い表すことは難しいが、誰かを踏み台にしなければ成り立たないのなら、それを"強さ"とは言わないのではないか......。恐らくはそういった疑問が彼の胸で少しずつ育っていったのだろうことは、想像に難くない。
 象徴的な場面がある。
 舞台は終盤の、ひと悶着があって緊迫感に包まれた教室。自分を心配そうに見つめながらも声をかけられずにいる何人かに、「大丈夫だから」と眼差しだけで伝えて彼らを押し留める基哉......。
 そうなのだ。この時の基哉は既に、薄々ながらも気付き始めているのだ。弱い者を叩くのが"強さ"ではないということに。むしろ弱者をいたわる行為こそが"強さ"であるということに。そして、本当に強い者は、弱い者には優しいのだということに。だからこそ彼は、友人たちを巻き添えにしない為に、自ら孤立することを選んだに違いないのだ。

 長くなったので結論を急ぐ。『青春のジョーカー』とは、一人の冴えない中学生がスクールカーストの中で強者の優越と弱者の悲哀をともに経験することで、"強さ"の本質を身を以て学ぶ物語であり、そこに於いて"思春期の性"云々は、テーマを走らせる為のレールに過ぎない。ではそのテーマとは何か? ズバリ"強さとは何か"。この物語を貫き通す主題は、それ以外にはあり得ない。
 偽物のジョーカーを手放して、本物の"強さ"を身に纏った基哉が、友人の冗談に自棄っぱち気味に叫び返すラストシーン。最後の1行を読み終えた時にはきっと、涼風に心を洗われたような読後感を味わえることを約束しよう。

 そう言えば、児童文学の名作『モチモチの木』(斎藤隆介作 滝平二郎絵/岩崎書店)でも、見事大役を果たした豆太に、じさまが優しく説いていた。基哉が学んだ"強さ"とピタリと符合するので最後に紹介しておきたい。
《じぶんで じぶんを よわむしだなんて おもうな。にんげん、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、きっと やるもんだ》

※冒頭の『方方日記』の日本語訳は、「時事ドットコムニュース」の2020年04月12日の記事、『【地球コラム】封鎖解除の武漢、コロナ「記憶」は消し去られるのか』より借用しました。

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丸善お茶の水店 沢田史郎
丸善お茶の水店 沢田史郎
小説が好きなだけのイチ書店員。SF、ファンタジー、ミステリーは不得手なので、それ以外のジャンルが大半になりそう。 新刊は、なんだかんだで紹介して貰える機会は多いので、出来る限り既刊を採り上げるつもりです。本は手に取った時が新刊、読みたい時が面白い時。「これ読みたい」という本を、1冊でも見つけて貰えたら嬉しいです。